夕暮れに腕を上げる木

写真怪談

実家のある町に、一本だけ変な木がある。
畑と住宅地の境目、ビニールハウスの端に、胴だけ太くて枝をぱっつり落とされた切株みたいな木が立っているのだが──夕暮れになると、その枝がどう見ても「万歳している人間」にしか見えない。

久しぶりに帰省したその年、ちょうど家の裏手がその木に面した借景になっていた。
西の空が赤く焼け、雲の底が金色に染まるころ、黒いシルエットだけがくっきり浮かび上がる。
胴体から伸びる二本の枝は、肩から肘、肘から指先まで、妙に人間の骨格じみた曲がり方をしていて、しかも、枝の先が電柱の方へすうっと伸びている。

「……あの木、前からあんなだったっけ」
洗い物をしていた母に何気なく声をかけると、母は手を止めずに、シンクの向こうの窓に視線だけを寄越した。
「見つけた? 夕暮れの腕木」
「ゆうぐれの……?」
「そう呼ぶ人がいるのよ。夕方だけ腕上げるから。あんまりじろじろ見ないでね」
注意の仕方が妙に具体的で、冗談とも本気ともつかない。

その夜、風呂上がりに縁側で涼んでいると、近所の人が畑道を通りかかった。
父と世間話をしているうちに、またあの木の話題になった。
「切っちまえば早いんじゃないですかね」
私が軽い気持ちで言うと、相手の顔が少し引きつる。
「……あれは、境の木だからねえ」
「境?」
「うちの集落と、向こう側と。昔からあってさ。あれ、勝手にいじると面倒なんだ」
父が咳払いをして話を切り上げ、縁側から私を追い払うようにして部屋の中へ促した。

それで逆に気になって、翌日、昼間に見に行ってみた。
近くで見れば、ただの剪定されすぎた柿の木だ。幹は古く苔むし、切り口からは新しい芽がいくつか出ている。
すぐそばにはビニールハウス、その向こうに二階建ての家が並び、空には電話線や電線が何本も走っていた。
明るい時間に見るかぎり、どうということのない風景である。

ただ、幹の根元、土が少しだけ盛り上がっていた。
踏み固められた畦とは違う、沈んだ足跡みたいな窪みが、幹に向かって数歩分だけ続いている。
誰かが、ここまで来て立ち止まり、それきり引き返さなかったように見えた。

その晩。
母が「日が落ちる前にカーテン閉めなさいよ」とわざわざ声を掛けてきた。
「なんで?」
「腕の数、数えちゃだめだから」
言ってから、母は自分で笑ってごまかしたが、私の中でその一文だけが引っかかった。

わざと、カーテンを開けたままにしておいた。

黄昏がじわじわと濃くなり、空の色が青から橙へ、橙から鈍い赤へと変わっていく。
窓の向こうで、ビニールハウスと家々が影になり、その中にあの木も沈んでいく。
そして、太陽がちょうど幹の裏側に落ちかけた瞬間──

木の両腕が、はっきりと見えた。

夕陽を背負って、黒い輪郭だけになったそれは、昼間に見た時より長い。
二本の太い枝の先から、節くれだった細い枝が何本も伸びていて、指を開いたように見える。
一本、二本、三本、四本……
数えるなと言われたのに、舌の上で数字が転がる。

五本目を数えたところで、私はふと違和感に気付いた。

枝の本数ではない。
枝先が、電柱の方へ向かって、一本ずつ吸い寄せられている。
腕木の両腕から伸びた「指」が、電線に触れるか触れないかのところで止まり、そのまま空中で固まっているのだ。

なのに、電線の影だけが、わずかに揺れていた。
風もないのに、まるで誰かに下から持ち上げられているみたいに。

その時、家の明かりが一瞬だけふっと暗くなった。
停電まではいかない、ごく短い、瞬きほどの陰り。
思わず部屋の蛍光灯を見上げてから、もう一度窓の外に目を戻すと──

枝が、一本増えていた。

数え間違いじゃない。
さっきまで片方の腕には三本、もう片方には二本の「指」があったのに、今は両方とも三本ずつある。
増えた一本の先は、まっすぐこちらの家の屋根の方へ向かっていた。

喉がからからになって、カーテンを乱暴に閉めた。

その後、何日かはあえて見ないようにしていたが、町にはぽつぽつと気になる噂があった。
ビニールハウスを管理していた老夫婦が、去年の秋から姿を見せないこと。
その前の年には、隣の電柱に上って作業していた電力会社の人が、足を滑らせかけてひどく怯えた様子で戻ってきたこと。
もっと昔にさかのぼると、あの境の木の下で首を吊ろうとした人がいて、その時もなぜかロープが電線に絡まり、町じゅうが一時停電になったこと。
誰も「全部あの木のせいだ」とは言わないが、話の中で必ず、夕暮れと電線と境の木がセットで出てくる。

そんなことを知ってしまうと、むしろ目を逸らせなくなる。

帰省も終わりに近づいたある夕方。
私はわざと、外に出るタイミングを夕暮れに合わせた。
畑道に立って、真正面からあの木を見る。
太陽が沈みかけ、空が焼けていく。

影絵みたいな景色の中で、境の木だけが妙にくっきりしていた。
根元から伸びる幹、左右に広げられた肩、そこから上に向かう腕──
電線に届く寸前で止まっているはずの「指」が、空の中でゆっくり開いたり閉じたりしている。
こちらを試すみたいに。

足元で、砂利がきしんだ。
自分の足音だと思ったが、音の方向が違う。
顔を上げると、ビニールハウスのフィルムの表面に、何かが映っていた。

私と、境の木の間――その中空に、薄い影が一体ぶら下がっている。

人の形をしているが、首より上がない。
肩から先だけが、木と同じように高く掲げられて、電線のほうへ伸びている。
その影の足元から、畑の土に向かって細い筋が降りていて、それが幹の根元の土盛りへと消えていた。

影は、私が瞬きをするたび、少しずつこちらに寄ってくる。
やがて、自分の足元にも、同じような細い筋が一本、影となって伸びていることに気付いた。
それは、私の踵から境の木の方へ、じわじわと引かれていく縄みたいに見えた。

突然、頭の上でバチッと音がした。
電線から火花が飛んだのかと思って見上げると、線そのものは静まり返っている。
代わりに、境の木の腕から生えた枝の一本が、電線を抱き込むように絡みついていた。

その瞬間、町じゅうの明かりが一斉に落ちた。
夕暮れと夜の境目が、嘘みたいな速度でこちらに迫ってくる。
闇の中に浮かび上がったのは、何本にも増えた黒い腕だった。

電柱の影、電話線の影、アンテナの影、屋根の縁に走る屋外配線。
それら全部が、境の木から伸びた「腕」の続きになっている。
家という家の中へ、畑の隅々へ、地中のケーブルにまで指を差し込みながら、何かを探るようにゆっくり蠢いていた。

足元の縄のような影が、ぐい、と強く引かれた。
膝ががくんと折れ、私は前のめりに転び、畑の土に手をついた。

手の下で、土が脈打っている。
心臓みたいなリズムで、幹の方からこちらへ、こちらから幹の方へ。
脈の一拍ごとに、境の木の腕が少しずつ上へ上がっていき。その先の電線が、私の家の方へとずれていく。

そのとき、遠くで誰かが名前を呼んだ。
母の声だった。
闇の中で、家の方から懐中電灯の光が揺れている。

はっとして顔を上げると、境の木はいつもの位置に戻っていた。
電線も、ビニールハウスも、夕焼けの残り火の中に静かに沈んでいる。
ただ一本だけ、これまで見たことのない細い枝が、私の方へ向かって伸びていた。

それは、電線には届かない高さで止まり、まるで人間の腕の長さを確かめるように、空中でぴたりと固まっていた。

家に戻ると、母は何も聞かずにカーテンを閉め、懐中電灯を消した。
停電は十五分ほどで復旧したが、そのあいだじゅう、家中の電化製品が、電源を切っているのにじわじわと暖かかった。

翌朝、東京へ戻るために駅へ向かう車の中から、最後にもう一度だけあの場所を見た。
朝の光の中、境の木はただの剪定された柿の木に戻っている。
けれど、車が角を曲がる瞬間、バックミラーの隅に黒いものが映った。

両腕を、昨日より高く上げた、境の木のシルエット。
そして、その肩の左右に、私が数えたことのない数の「指」がぶら下がっているのが見えた気がした。

それからしばらく、夜になると、ふと頭上の電線が気になるようになった。
都内のアパートの窓から見える線も、誰かの伸ばした腕の続きなのではないかと思えてしまう。
うっかり本数を数えそうになるたび、私は慌ててカーテンを閉める。

──あの木に、これ以上、腕を増やされたくないからだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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