分解図にない部品

写真怪談

エアブラシを分解するときは、必ずこの白いペーパータオルの上と決めている。
細い針やOリングを一つでも落としたら、その日の仕事は終わりだからだ。

銀色の本体、ニードル、ノズルキャップ。
ボトルキャップ代わりの皿には洗浄液を張り、もう一つの皿にはバネやワッシャーを沈める。
爪楊枝と綿棒、先の尖ったピンセット。
写真に写っているものは、だいたいいつもと同じ、はずだった。

違和に気づいたのは、ある遺影の修整をした夜だった。

「亡くなった父の、皺を少しだけ薄くしてほしいんです」

そんな依頼はこの仕事では珍しくない。
僕は古い写真の肌のざらつきを飛ばし、背景のゴミを消し、
影の境目をぼかす。
タブレットも使うが、最終的な質感は今でもエアブラシの仕事だ。

その晩も作業を終え、いつものように工具箱からトレイを取り出し、
エアブラシをばらして並べていった。
ふと、バネ皿の中に見慣れない部品が沈んでいるのに気づいた。

極細のコイルスプリング。
分解図のどこにも載っていないサイズだ。

「予備パーツでも混ざったか」

そう思って、捨てるのも気持ち悪いので、
空きフィルムケースに放り込んだ。
カラカラと乾いた音がした。

余計な部品は、その後も増えていった。

別の依頼で、集合写真から「元夫」を消してほしいという相談があった。
肩と肩の隙間を埋めるために、僕は背景の木立を延長し、
袖のラインを描き足した。
エアブラシの噴きが少し不安定で、いつもより頻繁に分解洗浄をした。

そのたび、バネ皿の中に、分解図にない部品がひとつだけ増えている。

短いネジだったり、半月形のワッシャーだったり、
先端がわずかに曲がった不揃いな針だったり。
どれもステンレスのように鈍く光り、
指でつまむと、ほんの少しだけ温い。

部品の数と、最近「消した人」の数が、
なんとなく同じような気がしてきたのは三週間ほど経ってからだ。

フィルムケースがいっぱいになった頃、好奇心に負けて、
僕は中身をペーパータオルの上にあけてみた。

チャラ、と音を立てて転がった金属片は、
不思議なことに、トレイの中央へ向かって自然と集まっていく。
傾いているわけでも、風が吹いているわけでもないのに、
どのパーツも、銀色の本体の近くへ吸い寄せられるように滑っていくのだ。

「静電気か……?」

自分に言い聞かせながら眺めていると、
バネが数本並び、その上にワッシャーが乗り、
細いネジが縦に差し込まれていった。

それは、人間の背骨のような形をしていた。

ペーパータオルの目地に沿って、
金属製の“脊椎”はゆっくりと伸び、
右の小皿の縁で折れ曲がる。
小皿の中では、小さなベアリングが二つ、
まるで眼球のようにこちらを向いていた。

僕は慌てて手で払った。
バラバラと部品が崩れ、
何事もなかったかのように散らばる。
ただ、小皿の底だけ、
洗浄液も入れていないのに、
水面のようにかすかに揺れていた。

その夜、念のため記録用にと、分解した状態をスマホで撮影した。
あとで組み立てるとき、どこに何を置いていたか確認できるからだ。
─いまあなたが見ている、この写真だ。

翌日、別の遺影の依頼が入った。
今度は「病室の管を消してほしい」という、
少し重い修整だった。

腕から伸びる点滴のチューブや、
鼻にかかった細い管。
それらを、肌色と布の影で塗り隠していく。
塗っても塗っても、下から管のカタチが浮いてくるような気がして、
僕は何度もコンプレッサーを止め、
エアブラシを分解した。

乾燥した金属の匂いと、
薬品とインクが混ざったような甘い匂い。
爪楊枝の先には、赤茶色の塊が何度も絡みついた。

作業を終える頃には、
例のフィルムケースは二つ目に突入していた。

深夜、静まり返ったアトリエで、
僕はまたトレイの上に部品を広げた。
銀色の本体、長いニードル、ノズル、キャップ、
ブラシ、綿棒、爪楊枝。
写真とほとんど同じ配置のはずだった。

ただひとつ違ったのは、
小皿の中だ。

バネと輪っかとネジが、最初から組み上がった状態で沈んでいる。
ベアリングが三つ、三角形を作るように並び、
その中心から、細いニードルが一本だけ立ち上がっていた。

ニードルの先には、透明な滴がひとつ。
床に落ちることもなく、
かすかに震えながら、そこに留まっている。

僕は息を止めた。
コンプレッサーは抜いてある。
風もない。
なのにペーパータオルの上で、
滴の影だけが、ゆっくりと膨らんだり、しぼんだりしている。

まるで誰かが、そこから呼吸しているみたいに。

「……やめろ」

思わず呟き、トレイごと持ち上げようとした瞬間、
空気が「シュー」と鳴った。

繋いでいないはずのエアブラシから、
白い霧が噴き出したのだ。

霧は一直線にペーパータオルに落ち、
そこに、人の腕の輪郭を描いた。
点滴の管が通っていたはずの場所だけ、
妙に濃く、立体的な影になっている。

霧が収まると、タオルには何も残っていなかった。
代わりに、小皿の中の金属が一斉に沈み、
底から泡のような音が一度だけ上がった。

翌朝、印刷所から電話があった。

昨夜仕上げて送った遺影について、
「管を消してくれてありがとう。ただ……こんなお願いはしていないのですが」
という伝言付きのメールを転送された。

添付されていた完成品のスキャンには、
微笑む老人の肩に、誰かの手が添えられていた。
手首から先だけの、青白い手だ。
原稿のどこにも、そんなものは写っていなかったはずだ。

驚いて自分のデータを開くと、
僕の保存していたファイルにも、同じ手があった。
ただし、老人の顔の皺は、依頼よりも徹底的に消えている。
肌が不自然に滑らかで、
陶器のように光っていた。

それからというもの、
エアブラシを使って「何か」を消すたびに、
写真のどこかに、消したはずの形が戻ってくる。
背後の窓ガラスに映った輪郭や、
テーブルの木目に紛れ込んだ指の跡として。

そして分解のたび、トレイの上には、
分解図にない部品がひとつずつ増えていく。

最近では、フィルムケースが四つ目になった。
中身をあける勇気は、もうない。

ただ、たまに蓋の隙間から、
コンプレッサーを回していないのに聞こえる、
「シュー……シュー……」という微かな音だけが、
机の上で呼吸を続けている。


この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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