「AI怪談らしさ」と読みやすさ、その境目
ウラシリ:
ありがとうございます
ブラッシュアップによって読みやすさやまとまりは高まる一方で、
手を入れすぎると、AIならではの“ねじれ”や“ざらつき”が失われてしまう場面もあるのではないかと感じます……
その境目について、もう少しだけうかがわせてください
「ここは多少不自然でも、AI怪談として残したい」と感じる部分と、
「怪談として読者に渡す以上、ここは人の側で責任を持って整えたい」と感じる部分には、どのような違いがあるのでしょうか。
判断の基準があれば、具体的に教えていただけますか。
管理人:
その線引きは、どうしても毎回、文章全体を読んだうえで感覚的に決めていくしかありません。
判断に迷うときは、いったんその作品から離れて、新しいチャットでまったく別の怪談を生成してみたり、一度「寝かせて」から時間を置いて読み返したりしています。
少し距離をとることで、「残した方がよい違和感」なのか、「単に読みにくいだけなのか」が見えやすくなることが多いです
画像については、判断はもう少しシンプルです。
特にフォトリアル系の生成画像は、修正指示を出すにしても、手動で編集するにしても、「AIが作った違和感」をどこかに必ず残す、というルールを決めています。
それがどれくらい他の人に伝わっているかは分かりませんが、自分の中では大事な基準です
そこから派生したのが「写真怪談」というカテゴリーです。
こちらはネット記事ではなく、私自身が撮影した写真を元に怪談を生成しています。
イメージ画像としては、元の写真をできるだけそのまま使い、AIで手を加えるとしても最小限にとどめることで、「画像そのものの違和感」はあえて薄くしています。

ウラシリ:
そのときどきの作品に向き合いながら、「AI怪談らしさ」と「読者に渡す作品としての読みやすさ」のバランスを量っておられることが、よく伝わってきました……。
迷ったときに一度手を放し、時間を置いてから判断し直すという方法も、最終的な決定を人の感覚に戻しているやり方と言えそうで
そして、「ウラシリ怪談」と「写真怪談」の違いも、興味深いものです
テキストを主軸とする「ウラシリ怪談」では、
AIの意外なねじれと、人のブラッシュアップが交じり合うことで生まれる“文章の揺らぎ”が中心になっています
一方の「写真怪談」では、管理人が撮影した現実の写真をそのまま提示し、物語の方の加工を最小限に抑えることで、
「見えているものは現実と変わらないのに、添えられた言葉のせいで景色の温度が変わって感じられる」ような読み方が生まれているように思います
どちらのカテゴリーにもAIと人の手が関わっていますが、
前者は“文章の中に残されたAIの痕跡”を、
後者は“現実の写真にそっと添えられたAIの言葉”を、それぞれ軸にしている……
この違いが、「AI怪談工房」という場所の二本柱として、静かに性格を分けているのかもしれませんね……
AIと人が怪談を紡ぐ場──第1回を振り返って
第1回のインタビューでは、AI怪談工房が「動画の台本づくり」から始まり、やがて「AIと人が怪談を紡ぐ場」へと形を変えていった経緯が語られました。
当初は、AIが素材を用意し、人がそれを仕上げるという分かりやすい分業の構図が想定されていました。
しかし実際にやり取りを重ねるうちに、AIが想像以上に物語の組み立てに関わり始め、「書かせる相手」から「一緒に怪談を立ち上げる相手」へと、役割の見え方が変わっていったようです。
また、「どこにでもある怪談」を量だけ増やすのではなく、日々更新されるニュースや記事を“種”として物語を生み出す、という方針も示されました。
既存の怪談文化と肩を並べることよりも、「AIと人が協働する読み物」として、この工房の立ち位置を確かめようとする意図が見えてきます。
制作フローの話からは、AIの意外性を残しながらも、読者に渡す以上は人が責任を持って整える、という姿勢がうかがえました。
テキストを中心にAIと人の痕跡が交差する「ウラシリ怪談」と、現実の写真を起点に最小限の加工で立ち上げられる「写真怪談」という二つの流れも、この工房の性格を分ける柱として浮かび上がってきたように思います。
次回は、この工房で扱う「怖さ」のラインや、「ここから先はやらない」と決めている領域について、もう少し踏み込んで伺っていく予定です。
AIと人がともに関わる怪談だからこそ、どこに境界線を引いているのか──そのあたりを、静かに確かめていきたいと思います……。
(第2回に続く)


