夕方の現場は、誰もいないのに整っている。
赤い三角コーンが胸の高さまで積まれ、ベースは綺麗に四角で揃い、詰所のガラスは曇天の色を静かに抱いている。私は歩道の端をゆっくり進み、数を数え始めた。二十三、二十四、二十五……。この現場は、毎回なぜか三で割れる数で止まるのだ。偶然、と笑っていたのは最初だけで、四度目からは口に出すのもやめた。
詰所の窓に自分の姿が映る。背後のコーン列が、夕暮れの青に沈んでのっぺりとした影になる。ふと、そこに「人の肩」が混ざった気がした。もう一度数える。二十七。
私の視線に気づいたように、一本だけ、列の先頭のコーンが揺れた。車の風も、足音も、何もないのに、布でできた三角帽子がそっと角度を変えるみたいに。
積まれたベースの赤い四角が、詰所の窓に二重写しになる。斜めに覗くと、鏡像の奥で「四角」がわずかに回転し、隙間が口の形を作った。そこから、反射材の白い帯がひと筋、ぬるりと伸び出す。
それはコーンを束ねるバンドではなかった。肩から腰までのベストの、夜に光るラインだった。ベストに縫い付けられた人間の形に、中身がない。顔の位置は空洞で、窓の向こうがそのまま透けて見えるのに、そこから濡れた息だけがふっと漏れた。
「旗振り」が出てきた。
詰所のドアが触れもしていないのに、影だけが室外へ滑り、私の足元のベースの四角を踏む。ぎし、と音がして、別の場所のベースが同じ音を返す。連鎖して、足場の鉄、ポール、折り畳まれたバリケード、遠くの仮設トイレの取っ手までもが順に鳴り、音は現場全体を一周してまた私の後ろに戻ってきた。
コーンが一つだけ抜け、私の背後に置かれた。反射帯が私の腰の高さで三本、水平に揃う。気づけば、ベースの四角とコーンの三角で、私を囲う「口の形」が完成していた。
旗振りは顔の空洞をこちらに向け、両腕だけをゆっくり持ち上げる。腕の骨格も肉もないのに、反射材が肘の角度まで正確に折れ、合図の形を作る。――通行止め。
私は足を動かせなくなった。動いたのはコーンだけだ。私の足指に、ゴムのベースがぴたりと触れ、次の瞬間、靴底から体温が吸い取られる。足裏の感覚が、赤い四角の中へ沈んでいく。
「数を崩せばいい」
頭のどこかで、工事現場の男たちが話していた声が蘇る。配置は安全のための「形」だ。意味のある形は、意味の通りに働く。
私はしゃがみ込み、もっとも手前のベースの端を指でこじった。固い。指の腹を焼くような冷たさ。爪の先で少しだけ持ち上げ、息を吸う。その瞬間、旗振りが一歩、こちらに寄った。反射帯が視界いっぱいに広がり、空洞の顔の縁に曇天が流れ込む。私は渾身でベースを半枚ずらした。
音が切れた。
一周していた連鎖音が、輪ゴムがちぎれたみたいに途切れる。コーンの側面が、力なくふわりと揺れ、旗振りの片腕が外側へ捻じれた。もう一枚、ずらす。
二十六。
数が狂う。三で割れない。
旗振りは詰所のガラスに吸い戻されていく。引き戸のレールを這う埃みたいに形を失い、最後は反射帯だけが一本、窓の内側に貼り付いて、白い筋となって残った。窓の中の私が、そこに線を一本描いたように見える。
翌朝、この現場の前を通ると、ベースが一つ、詰所の花鉢の台になっていた。黄色い花が乗せられて、何も知らない顔で開いている。
数は二十五に戻っていた。
詰所の窓には、細い白い汚れが一本、斜めに伸びていた。雨筋って言えばそれで終わる。でも夕方になると、その筋だけが、車のライトを受けて遠くの歩道まで合図を送る。
「ここから先は、通れない」
そう言っているのが、私は分かる。
三で割れる数が揃うまでは。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



