逆さの歩幅

写真怪談

コンクリートの斜路は、雨のたびに土色を吸って重くなる。落書きはどれも湿っていて、乾いた線がひとつもない。頭上には橋の裏側、鋼材の継ぎ目が幾本も走り、灰色の皮膚に縫い目を描いている。
ここを通るときだけ、足音が遅れる。自分の靴裏の打音が一拍遅れて、真上を横切っていく。はじめは反響だと思っていた。だが、音は次第に増え、拍がばらけ、人数ぶんに膨らむ。
ある日、立ち止まって見上げた。橋桁の隙間、細い白い管がぶら下がり、まるで耳の形に曲がっている。風はないのに、管の端がふるえた。息を潜めると、斜路の落書きの目玉が、濡れたように光っている。
その瞬間、上を“誰か”が走り抜けた。裏返しの足音が、鉄板と鉄板の間の影を渡る。影の向こうには細い通路がつづいている。舗装も標識もない、橋の腹の内側の、もうひとつの道路。そこを、人の足だけが通っていく。脛から上は見えない。足首は汚れておらず、滑らかに、均等な間隔で進む。まるでこちらの拍動に合わせて。
背中が冷たくなり、逃げようとしたとき、白い管が微かに傾いて、こちらへ“聴き耳”を立てた。斜路の赤いペンキが、合図のように三角へ滲み、コンクリの模様がゆっくり回転しはじめる。渦の中心は、橋桁の細い隙間。そこだけ空が薄く、別の天候が見える。雨でも晴れでもない、磨りガラスみたいな白さ。
足音は一列になり、私の真上でぴたりと止まった。視線を感じて、顔を上げる。隙間の縁、鋼材の陰に、爪先が四つ、同時にこちらへ向き直る。揃った爪の先が、コンクリの粉を落とした。
私は息を飲んだ。すると落書きの目玉が、確かに瞬いた。まぶたの代わりに白い塗料が寄って、黒が隠れる。次の瞬間には、上の足音がふたたび動き出していた。
逆さの道路は、私を追い越し、見えない交差点へ消えていく。やがて音は遠ざかり、橋の腹は元の静けさを取り戻す。ただ、頭上の白い管だけが、聞き取れない鼓動に合わせてかすかに揺れていた。
それ以来、ここを通ると、足音は必ず真上を横切る。自分の歩幅と、上の“誰か”の歩幅が合うときだけ、隙間の向こうから粉が落ちる。落ちた粉は、斜路の落書きに吸い込まれ、翌日には新しい線になっている。私は描いていない。けれどもここに来るたび、落書きの数は確実に増えているのだ。
ある夜、思い切って駆け足で通り抜けた。追ってくる足音はぴったり重なり、最後の継ぎ目で私より半歩早く止まった。見上げる前に分かった。そこには、私の靴と同じ削れ方をした爪先が、四つ、並んでいる。
以降、橋の腹は私の足音をよく覚える。たぶん、あなたのも。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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