氷が三度、薄い音を立てて割れた。
夜の台所、私はジンジャーハイボールの泡を眺めていた。しょうがの香りが鼻に抜け、きゅうりの浅漬けには醤油の海が光っている。皿の縁に沿って、油膜がゆっくりと巡回するみたいに動いて、止まった。
そのとき、向かいの椅子が鳴った。誰もいないのに、布の座面が沈むような、軽い「コッ」という重み。私は笑って誤魔化し、コップを傾けた。炭酸が喉を通るたび、耳の奥で泡がはじける音が増える。ひとつ、ふたつ、みっつ。——返事の数だ。
箸を置いた拍子に、醤油の海に小さな波紋が走った。波紋は皿の内側を一周して、きゅうりの輪切りの中心に吸い込まれ、そこを黒い瞳みたいに暗くしていく。輪切りがじっと見上げてくる。視線を逸らしたら、ガラスに白い曇りがついた。向かい側の、私の口じゃないところに。吐息の跡だと気づくまで、二口かかった。
私は「おかえり」と言わなかった。言えば、そこに座るものに名前が与えられてしまう気がしたから。代わりにグラスを置いた。輪染みがひとつ増え、先に付いていた輪の内側へ、泡が逃げ場を失って静まった。輪は二重になると、指紋みたいな細い筋を帯びて、乾かない。
「一口、もらうね」
女の声が、泡のはじける拍でわかる。言葉にならない合図が、喉の奥で弾けて、意味だけが届く。ジンジャーの甘さが急に薄くなる。アルコールの匂いだけが立ち、氷の角が舌に当たって痛い。
向かいの席の沈み具合が、ほんの少し重くなった。きゅうりの数が、見たときよりひと切れ減っている。箸先をつけていないのに、醤油の海には二本分の筋が引かれ、端で合流して渦になっていた。渦はやがて、台所の作業台に開いた丸い穴のほうへ、細い水路みたいに延びていく。そこは、以前、彼女が落とした指輪を探して、私が手を切った場所だ。血の跡はもちろん、とっくにない。でも渦は、そこへ。
私はジンジャーエールのペットボトルを手に取り、ラベルの英字を黙読した。何度読んでも、同じ字に見えない。「W」の幅が伸びたり縮んだりして、隣の「I」を押し出す。息を止めて見ると正しく戻る。息を吐くとまた歪む。薄いボトルの身がわずかに鳴って、空気がどこかで合う音がした。——向かいにいるものは、確かに呼吸している。私の呼吸に、重なって。
乾杯の音を、私は先に鳴らした。グラスの縁に箸を軽く当てる。澄んだ音が台所に広がり、壁にぶつかって戻ってくる。戻り音はひとつ多く、わずかに低く、泡の下から響いた。向かいの席の輪染みが、濃くなる。そこに置かれたはずのグラスの底は、見えないのに、濡れている。
「最後にしよう」
独りごとに近い声で言う。
泡は素直に小さくなった。氷はもう、割れない。彼女は、減ったきゅうりをそのままにして出ていく。向かいの椅子の沈みは、音もなく戻る。二重の輪染みだけが残り、指で触れると冷たい。
翌朝、私は輪染みにコップを重ねずに、別の場所へ置いた。輪は消えない。乾かない。台所の明るさの中で、そこだけが夜の色をしている。夕方、同じ時間になると、輪はわずかに広がる。席が、もう一つ増えないように——私は、今もその上に何も置かない。置いたら、また誰かが座ってしまうから。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



