官邸の夜会議

【ウラシリ】怪談

その夜、首相官邸の巡回記録には、執務室の前で足音が二度止まっていると記されています。
扉の向こうでは、予定にない会議の声が幾層にも重なり、壁の奥からにじむように響いていたそうです。
鍵は掛かっておらず、灯りは消えたまま。警備員がノブを押すと、冷気が指先を吸い、音のない波が室内へ引いていったといいます。

部屋には誰もいませんでした。
ただ、長机の周りに並ぶ椅子が、どれもわずかに机へ寄っており、背凭れには人の背の形をなぞる湿りが残っていました。
机上のメモ帳は白紙のままですが、紙の中央に丸い跡がひとつ、押印の痕のようにくぼんでいたといいます……。

そこで異変が始まったそうです。
長机の端から端へ、椅子が一脚ずつ音もなく引かれ、空席が規則正しく埋まっていきました。
誰もいないのに、椅子は「腰を下ろす重み」を受けたかのように沈み、肘掛けには見えない肘が乗りました。
天井の時計は午前一時十七分で止まり、机の中央に置かれたスイッチの赤いランプだけが点きました。
電源が落ちているはずの会議用マイクが、鳴らない喉をひとつずつ点検するように弱く明滅したといいます。

窓硝子が内側から曇り、そこに顔のない輪郭が十余り、外側から覗き込むように浮かびました。
輪郭は口だけを開閉し、室内の空席とぴたりと向かい合いました。
そのとき、机の引き出しが一斉に半寸だけ開き、紙の匂いと湿った朱肉の気配が立ったそうです。
見えない手が、そこに差し入れられた印を確かめているようでした。

議論の「合図」は、目に見えない挙手だったと記録されています。
空気が立ち上がる気配とともに、椅子の背が微かに軋み、無人の座が順に頷いたのです。
続いて、白紙のメモに墨の筋が自ら浮き、誰も書いていない議事の骨組みが一行ずつ現れました。
文字は読めたのか――警備員は後に、そこに繰り返し現れる一文だけがはっきりしていた、と答えたそうです。
「辞任は当然です」

逃げようとした足元で、廊下の灯りが尾を引くように一本ずつ消え、
扉の縁では淡い霜が生え、銀色の息が敷居を越えるのを拒むかのようでした。
それでも彼が身を翻した瞬間、室内の椅子は最後の一脚まで机に寄り切り、
見えない列席者が全員、正面を向いたことだけは確かに“見えた”といいます……。

その後の描写は淡々と続きます。
会議は開会し、誰も押していないスタンプ台から紙へ朱が落ち、印影のない印影が整然と並びました。
内線電話は受話器の上で短く震え、「ただちに発表を」という無人の指示が繰り返され、
外の曇り硝子には報道のテロップのように、同じ一文が淡く浮き沈みしたといいます。

翌朝、辞任の発表が行われました。
理由は選挙の大敗と説明されましたが、前夜の“誰もいない閣議”の議事録には、
白紙の束のまま、角だけが削れた痕と乾いた朱色の匂いが残っていたそうです。
警備員はそれ以降、どの問いにも「辞任は当然です」とだけ答えるようになり、
笑われても、詰られても、泣かれても、その四語だけが彼の口から漏れ続けたといいます。
しだいに声は掠れ、やがて口だけが、呼吸の拍子に同じ音形をなぞる器官のように見えたとも……そんな話を聞きました。

その日を境に、官邸の外側でも小さな異変が増えたと報告されています。
市場の掲示板で数列がまばたきに見え、ATMの残高の桁の奥に同じ文が揺れ、
印刷所では、誰も指示していない短冊紙が「その一文」だけを吐き出したそうです。
だが、最初の震源は、誰もいない部屋に整列した椅子と、無音で頷いた“出席者”たちだった――
記録は、そこで途絶えているそうです。

この怪談は、以下のニュース記事をきっかけに生成されたフィクションです。

石破首相が辞任表明、米大統領令「一つの区切り」 総裁選出馬せず

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