昼すぎ、用事の合間に小さな店へ入った。
木のカウンターの窓際で、瓶ビールとしめ鯖を頼んだだけだ。眼鏡を外して畳んだマスクの横に置くと、店の中は急に近くなった。曇りガラス越しの光は白く、卓上の魚の皮だけが妙に冷たく光って見えた。
運ばれてきたときから、右手の小皿だけが少し変だった。
まだ何も注いでいないのに、内側に薄い半月の濡れ跡があり、指で触るとひやりとした。醤油の匂いではない。冷えた瓶の口元に鼻を近づけたときの、苦い泡の匂いに近かった。
拭ってもすぐ乾くのに、目を離すとまた同じ位置に戻っていた。
最初のひと口を飲んだとき、瓶の肩の茶色いガラスに、店の中が映った。
ただの映り込みではなかった。そこだけ昼ではなく、閉店後みたいな夜の色をしていた。
私の前にあるはずの皿が、瓶の中ではもう少し食べ進められていて、右の小皿には黒い液体が半分ほど溜まっていた。しかも、その向かいに、誰かが座っている。
顔はよく見えない。ただ、喉のあたりだけが不自然に白く、ちょうど瓶の口へ寄る高さで止まっていた。
気のせいだと思って、しめ鯖を一切れ取った。
皮の面を上にしてあったはずなのに、次に見たとき、皿の上の三切れはどれも少しずつ向きが変わり、切り口が窓の方を向いていた。生姜も、箸をつけていないのに先だけが平たく潰れていた。
左に置いた眼鏡を何気なく持ち上げると、レンズの外側だけが白く曇っていた。顔にかけたときには絶対につかない位置だった。
それから、飲むたびに向こうが近づいた。
瓶の中の夜のカウンターでは、小皿の液面が少しずつ下がり、そのかわり現実の小皿の縁に、細い褐色の輪が上がってきた。私は一滴も注いでいないのに、皿の底から先に使われていくみたいだった。
二口目のあとには、瓶の中の誰かが私の眼鏡をかけていた。
現実の眼鏡は、ちゃんとマスクの横に畳まれたままだった。
急に飲む気が失せて、瓶を置いた。
そのはずなのに、会計を頼むまでのあいだに、ビールの液面は指一本ぶん低くなっていた。
店員は何も言わず、細い伝票を黙って置いた。そこには、瓶ビール、しめ鯖の下に、見覚えのない一行があった。
「夜勘定 一名」
時刻は二十一時四十七分。まだ外は昼の明るさだった。
店を出てから、どうしても気になって、曇りガラス越しに自分の席を見た。
店内は白くぼやけているのに、私が座っていた場所だけ、瓶一本ぶんの幅で夜が抜けて見えた。
カウンターにはもう瓶はなく、小皿だけが持ち上がっていた。
その高さは、眼鏡をかけた誰かの口元より、少し下だった。
帰宅して眼鏡を拭こうとしたとき、鼻あての外側に、薄い塩気のある輪がついているのに気づいた。
内側ではない。誰かが反対向きにそれを顔へ押しつけたときにしかつかない位置だった。
財布の中の伝票は丸く湿っていて、最下段にだけ、滲んだ文字が増えていた。
「先分 済」
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


