隙間顔

写真怪談

あの建物の裏には、非常階段と配管と壁だけが押し込められた、妙に息苦しい隙間がある。
桃色の塗装が剥げた太い管、白い縦管、足元へ潜る黒い蛇腹管。人が入り込める幅はどこにもないのに、夕方だけ、あそこに誰かいるように見えることがあった。

最初に見たのは、階段を下りかけてふと横を向いたときだった。
白い縦管の奥、コンクリート壁に頬を押しつけた顔があった。
真正面から見れば、ただの配管の並びにしか見えない。けれど、手すり越しに斜めから覗くと、確かに人の輪郭になる。額、鼻先、唇のくぼみまであるのに、肩から下は桃色の太い管と壁のあいだへ紙みたいに薄く挟まっていた。

見間違いだと思った。
だが翌日もいた。
昨日は下を向いていたはずの顔が、その日はまっすぐこちらを見ていた。目だけが妙に黒く、鼻筋の横には剥げた塗膜の桃色がまだらに貼りついている。人の肌ではなく、配管の表面をそのまま顔の形にしたみたいだった。
その足元、コンクリートの縁に五本の細い湿り筋が残っていた。雨は降っていない。なのに、指でつかんで体を引きずったような跡だけが、苔の上を短く削っていた。

三日目には、顔の位置が少し前へ出ていた。
白い縦管の奥ではなく、へこんだ銀色の横管のすぐ向こうにあった。顔の横幅はそのままなのに、頬だけが管に押し潰されて平たく広がって見える。へこみのある銀管には、前日までなかった曇りが楕円に残っていた。息を吹きかけた窓みたいな曇りではない。もっと脂っぽく、人の顔を長く押しつけたあとみたいな濁り方だった。
布で拭いたら落ちたが、指先に付いたのは水気ではなく、桃色の細かい塗膜だった。

それからは、見るたび少しずつ近くなった。
今日は銀の管の奥。
明日は手すりの向こう。
次は、階段の支柱と支柱のあいだ。
距離の詰め方だけが不自然に正確で、まるで狭い隙間の中を前進するのではなく、こちら側へ順番に“配置され直している”みたいだった。
しかも、見えるのはいつも顔から先だった。肩も腕も、胴も脚も見えない。ただ、顔だけが、その日のいちばん前まで来ている。

管理人に話しても笑われた。
だがその晩、裏口の鍵を閉めに行った管理人が、無言で戻ってきた。顔色が悪かった。
非常階段の手すりの裏に、五本の錆の剥げ跡がついていたという。誰かが下から指を回して、強く握ったような形で。しかもその高さは、あの隙間からは絶対に届かない位置だった。

私は翌日の夕方、まだ明るいうちに見に行った。
いた。
今度は顔だけではなかった。手すりの縦棒のあいだに、指が一本だけ見えていた。白くも黒くもない、湿ったコンクリートみたいな色の細い指だった。節が妙に少なく、曲がり方も人間の手と少し違う。その指先が、手すりの錆を静かにこすっていた。かり、かり、とも聞こえないほど小さく動いて、金属の赤茶けた粉だけを下へ落としていた。

目を離せなかった。
顔は壁に押しつけたまま、目だけがこちらへ寄ってきた。
黒かったはずの眼窩の奥に、ぬめった白がにじみ、遅れて瞳が浮いた。生きた人間がこちらを見るときの動きではない。配管の継ぎ目の向きが変わるみたいに、部品の位置だけがすべって合っていく感じだった。
そして口が開いた。
上下ではなく、横へ。
ちょうど銀の管のへこみと同じ形に、真ん中からゆっくり折れた。

その瞬間、顔が一段ぶん前へ来た。
狭いところを抜けてきたのではない。今まで向こう側にあったはずのものが、手すりのこちらへ、何の抵抗もなく置き換わったみたいに現れた。
私は悲鳴も出せずに階段を駆け上がった。背後で金属をなでる音が続いた。追ってくる足音はないのに、手すりだけが下から順番に、かた、かた、と微かに鳴った。

翌朝、隙間には何もいなかった。
ただ、へこんだ銀管の中央に、顔の半分だけを押しつけたみたいな新しい曇りが残っていた。片目の位置だけ、丸く、そこだけ妙にきれいだった。
それと、非常階段の二段目から五段目まで、手すりの裏の錆が、五本指の幅で少しずつ剥げていた。下の段ほど古く、上の段ほど新しい。
あれは隙間の中から出ようとしていたんじゃない。
もう出ていて、あとは上へ来るだけなのだと思う。

今でもあの裏手を通ると、真正面には何も見えない。
けれど階段を上がる途中、ふいに横目になった瞬間だけ、縦棒のあいだに顔がある。
最初に見た時より、ずっと高い位置に。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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