初夏の遠征に向けて、ロンドンの大きな歌劇場では、二千点を超える衣裳と頭飾りの箱が、長い廊下いっぱいに並べられていたそうです。百五十人ぶんの荷を間に合わせるため、稽古着と化粧道具の箱まで、予定より早く今週じゅうに船へ回すことになったといいます。
その夜、衣裳係のひとりが、頭飾りの箱の陰に、見覚えのない一足の靴を見つけたそうです。薄い色の稽古靴で、持ち主の札も役名の札も付いていない。ただ、まだ海も越えていないはずなのに、つま先だけが、何度も強く床を押したみたいに柔らかくなっていたそうです。裏には白い粉がわずかに付いていて、保管庫の床と同じ細かな粒が、左右きっちり揃っていたといいます。
誰かがしまい忘れたのだろう、と最初はそう扱われました。先に幕を閉じた演目の箱へ戻しても、翌朝には別の列に移っている。今度は、まだこちらで公演の残っている演目の荷札のそばにあったそうです。船で送る方にも、あとから空輸する方にも、その靴だけが両方へ紛れ込むので、係の人たちはさすがに気味悪がりました。
それでも記録を合わせれば、総数は狂わないのだそうです。二千点を数え終えたあとの紙の最下段に、昨夜までなかった一行が増えているだけでした。品目欄は空白、役名欄も空白、宛先だけが小さく「東京」と打たれている。線を引いて消しても、翌朝には同じ場所に戻る……そういうことが三日続いたそうです。
四日目の朝、先に詰めたはずの化粧道具の箱が、一度だけ内側から開け直された形跡を見つけたそうです。封は切れていないのに、中の油彩だけが半分ほど減っていたといいます。髪留めは奇数本足りず、稽古着にはまだ湿り気が残っていたそうです。保管庫の床には、白い粉のついた爪先の跡が、鏡の前まで五番で進んでいて、そこから先だけがありませんでした。鏡には何も映っていなかったのに、曇りだけが人ひとり分の高さで残っていたといいます。
荷の最終計量の日、ひとつの空箱が、記録より明らかに重かったそうです。二人がかりで持ち上げると、中で体重の置き方を変えるみたいに、すこしだけ重さが動いた……そんな証言が残っています。蓋を開けると、中にあったのはあの靴だけでした。結び直した覚えのないリボンが固く締まり、つま先には新しい削れが増えていたそうです。さっきまで誰かが履いていた靴の温度だった、とその場にいた人は言ったそうです。
結局、乗る人の名簿は最後まで百五十人のままでした。ただ、荷札の番号だけが一枚ぶん余ったそうです。空いた番号の行先欄には、やはり東京とだけ印字されていたのだとか。
遠征先で最初に箱を開けた朝、その靴は廊下の真ん中に揃えて置かれていたそうです。誰も箱から出していないのに、爪先はきちんと舞台の方を向いていたといいます。まだ誰も、その日の板を踏んでいない時間でした……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
Costumes, shoes and so much more: Britain’s Royal Ballet packs for its Asian tour
reuters.com
