喉と腹のあいだ

ウラシリ怪談

春の健診で、塩分を控えるように言われた男がいたそうです。

一人暮らしで、夕食は毎晩ほとんど同じでした。薄い汁物と、小鉢が二つ。卓上の塩は片づけ、代わりに砂糖壺を出しておいたのだといいます。甘くすれば、余計な塩気は欲しくならないだろう……その程度のつもりだったそうです。

ところが、塩をしまった最初の夜、汁椀のふちだけが白くざらついていました。舐めると、海水を半分ほどに薄めたような、嫌に正確な塩辛さだったそうです。鍋の残りは普通の味で、同じ椀に注ぎ直しても、やはりその一杯だけが塩の味になったといいます。

気味が悪くなり、男は翌晩、台所の塩をすべて戸棚の上段に移しました。代わりに、同じ形の白砂糖を手元へ置いたそうです。けれど変わったのは、汁物ではなく男のほうでした。

夜中になると、喉の奥に何か小さなものが触れる感じで目が覚めるようになったそうです。咳き込むほどではないのに、飲み下すと腹のほうで遅れて重くなる。まるで、口ではなく、喉と腹のあいだのどこかが先に味を知っているようだった……と記されています。

その感覚が出た夜だけ、流しの前に置いた体重計へ、白い粒が二筋落ちていました。一本は男の椅子から台所へ、もう一本は戸棚の下で止まっていたそうです。砂糖に替えた日は、その筋が消えました。砂糖壺の中身は減らず、代わりに、戸棚の上段にしまったはずの塩だけが、封を切っていない袋から静かに軽くなっていったそうです。

男は不安になり、食事の記録をつけ始めました。
朝・昼・夜の欄しかない簡単な表だったのに、数日後から、毎ページの端に細い字で「九」「七」とだけ書き足されるようになったそうです。自分の癖ではないのに、墨のように濃く、消しゴムでも薄くならない。しかも、その数字が記された晩に限って、汁椀の内側には指でなぞったような白い輪が二つ残りました。片方は喉に触れる上の縁に、もう片方は椀の底近くに……。

男はそれを写真に撮って、翌朝、娘に見せようとしたそうです。ところが画像には椀しか映っておらず、白い輪だけが写っていなかったといいます。代わりに、テーブルの木目の上へ、誰かの口のかたちに似た湿りが一つ、淡く残っていたそうです。

六月に入ってからは、食後の器を流しへ運ぶ前に、決まって一拍ぶん遅れが出るようになりました。箸を置いてから、椀の中で何かがもう一口ぶんだけ音を立てるのです。覗いても減った様子はありません。ただ、翌朝になると、前夜に減塩で作ったはずの汁が、白く乾いた縁だけを残して空になっている。鍋の底には、塩の粒ではなく、小さな歯のような欠けがいくつも沈んでいたそうです。

娘が泊まりに来たのは、その翌週でした。
夜更けに、台所でかすかな咀嚼音がして、娘が見に行くと、父親は椅子に座ったまま眠っていたそうです。食卓には何もなく、塩も砂糖も蓋が閉まっていた。それなのに、父の喉からみぞおちにかけて、服の上から白い筋がうっすら二本、粉をこぼしたように伸びていたといいます。

娘が肩を揺すると、男は目を開ける前に、喉の奥で一度だけ、ごく小さく嚥下したそうです。その音に続いて、閉じた戸棚の上段から、未開封の塩袋が床へ落ちました。破れてもいないのに、中身だけが半分ほど失われていたといいます。

その家では以来、減塩の食事を作るほど、食後の台所が白く乾くようになったそうです。
逆に砂糖を増やした日は、何も起こらないのだといいます。だから娘は、父の前では甘いものばかり出すようになったそうです。けれど、あの家の戸棚の上段には、今も誰にも開けていない塩の袋が、二つずつ並んで軽くなっていくらしいのです。
何が喉より先に塩を知り、何が腹の底でそれを待っていたのか……そこまでは、誰も確かめていないそうです……そんな話を聞きました

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

致死量の塩を感知し防御反応を誘導する、新規な分子神経機構を発見――線虫は、腸で塩分を検知し、耐性遺伝子を発現制御することで、塩分環境に適応する――

致死量の塩を感知し防御反応を誘導する、新規な分子神経機構を発見――線虫は、腸で塩分を検知し、耐性遺伝子を発現制御することで、塩分環境に適応する―― | 東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部
致死量の塩を感知し防御反応を誘導する、新規な分子神経機構を発見――線虫は、腸で塩分を検知し、耐性遺伝子を発現制御することで、塩分環境に適応する――
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