七階の水位線

写真怪談

私の勤め先は、川というには細すぎる水路に面したビルの七階にあった。
窓の外には、蔦の垂れた石壁と、反対側のコンクリート護岸が向かい合っていて、そのあいだを黒い水がほとんど流れずに溜まっている。晴れた日はただの景色だが、空が低く垂れこめる午後だけ、あそこは妙に深く見えた。

最初の異変は匂いだった。
雨でもないのに、エレベーターが七階に着いた瞬間だけ、川底をひっくり返したような冷たい泥の匂いがした。誰かが濡れた傘を持ち込んだのだろうと思ったが、匂いは廊下ではなく、窓際の席に近づくほど濃くなった。
窓は閉まっている。隙間風もない。それでも、ガラスの内側だけが薄く曇り、指で触れるとひやりと冷えていた。

三日目、窓ガラスの下半分に、一本の細い筋が現れた。
結露でも手垢でもない。灰色がかった線で、よく見ると、乾いた泥がこびりついたようなざらつきがある。ちょうど、外の水路に見える水面と同じ高さだった。
ただし、水路の水面は地上にある。
その線は、七階の窓の内側に出ていた。

清掃の人が雑巾で拭くと、線はきれいに消えた。
ところが翌日には、同じ窓に、今度は五センチほど高い位置でまた現れた。
外の水位は変わっていない。管理会社も「増水はありません」と言った。それでも、線だけが少しずつ上がっていく。
私は窓のそばに立つたび、ここが七階ではなく、見えない水の中に沈み始めているような気がした。

そのうち、窓際の席でおかしなことが起き始めた。
机の一番下の引き出しに入れていたコピー用紙の角が、毎朝すこしだけ波打っている。
床は乾いているのに、椅子の脚だけがぬるく湿る。
パソコンの電源を入れる前から、画面の下端に水滴の跡のようなものが並ぶ。
誰も原因を説明できなかったが、皆、夕方になると自然に窓から離れるようになった。

それでも一人だけ、窓際を気に入っていた同僚がいた。
古橋さんという、物静かな人だった。
彼はその水路を見下ろしながら、「ここ、たまに高さが合わなくなるんだよね」と言った。
何のことか聞くと、彼は笑って、窓の外を指した。
「あの水、下じゃなくて、たまにこっちにある気がする」
冗談めかしていたが、その手の先は少し震えていた。

翌週の火曜、朝から雲が重く、線はさらに高くなっていた。
窓ガラスだけではない。廊下の白い壁にも、茶色い帯がうっすら浮いていた。護岸に残る古い水位線のような色で、ところどころに細い草の繊維まで混じっている。
七階だけだった。
六階にも八階にも何もない。

昼過ぎ、右手の線路を電車が通ったとき、フロア全体がわずかに震えた。
その瞬間、窓際から、ぱしゃ、と小さな音がした。
振り向くと、古橋さんの席の足元にだけ、黒い水がコップ一杯ぶんほど広がっていた。天井からも窓からも漏れていない。ただ、椅子の下から湧いたみたいに見えた。
皆で後ずさったが、古橋さんだけは立ち尽くしたまま、窓を見ていた。

ガラスの向こうに、もう一本、線が走っていた。
今度は内側ではなく、外側だった。
しかも水平ではない。人が中腰で座ったときの背の丸みに似た、ゆるい弧を描いている。
その輪郭の内側だけ、景色がわずかに暗い。
まるで七階の窓の外に、水の中で膝を抱えた誰かがいるみたいだった。

誰かが悲鳴を上げた。
古橋さんが、すっと一歩、窓に近づいた。
止める間もなく、彼はガラスに手をついた。ぱん、と乾いた音がして、外側の暗い輪郭の中から、同じ位置に、もう一つ手の跡が返ってきた。
外から押し返したように見えた。
でも七階の外に、人が立てる足場なんかない。

その日の夕方、古橋さんは早退した。
体調不良ということになったが、翌日から出社しなかった。電話もつながらず、机の中身はそのままだった。
総務が席を片づけたとき、引き出しのいちばん奥から、湿って貼りついたメモが一枚だけ見つかった。
ボールペンの字がにじんで、かろうじてこう読めた。

「今は七階まで」

それから一週間、フロアは閉鎖された。
設備点検という名目だったが、誰も本当の理由を口にしない。
私は別の階へ移され、それでも帰り際に橋の上から水路を見下ろす癖だけが残った。
ある曇りの日、水面は相変わらず低い位置にあった。けれど、向かいのビルの七階の窓列だけが、底の泥のような鈍い色に沈んで見えた。
見上げているはずなのに、水の下を覗いている感じがした。

閉鎖からひと月後、管理会社がようやく七階の清掃に入った。
窓の泥の線はほとんど消えていたらしい。
ただ、一枚だけ、どうしても交換できないガラスがあったという。
内側にも外側にも傷はないのに、中央に人一人ぶんの輪郭だけ、いつまでも薄黒く曇りが残る。
その輪郭の胸のあたりを横切るように、一本のまっすぐな線が通っている。
ちょうど、水位線みたいな高さで。

今でもその水路のそばを通るたび、私は反対側の護岸を見る。
雨の後でもないのに、昨日までなかった位置に、新しい濡れ色の帯が細く増えていることがある。
実際の水面はそのずっと下だ。
それなのに、七階の窓だけは、曇り空の日ごとに少しずつ鈍くなっていく。

あのビルでは今、六階までしか人を入れていない。
七階は空のままだという。
けれど夕方、橋の上から見上げると、ときどき窓の内側に人影がある。
座っているだけだ。
膝を抱えた姿勢で、胸の高さまで見えない水に浸かりながら、じっとこちらを見下ろしている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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