電線の赤い花びら

写真怪談

春の晴れた昼、この通りの異変は遠くからでも分かった。

桜はいつもどおり淡い白なのに、交差点の上を渡るいちばん低い電線だけが、真っ赤な花びらでびっしり膨れていた。数枚どころではない。一本の半分が赤い毛皮を巻いたように太くなり、黒い被覆が見えないほど隙間なく覆われている。花びらは風に散らず、全部が先端を同じ向きにそろえて、電線へ半分ほど刺さっていた。角から路線バスが現れると、その赤だけがざわ、と逆立った。

最初は誰かの悪戯だと思った。だが近くで見ると、もっとおかしかった。桜の花びらなのに色が違う。血でも絵の具でもない、濡れた果肉みたいな鈍い赤で、表ではなく裏が外を向いている。区の作業員が長い棒でこそげても、ぱらぱら落ちず、ぺり、と薄い皮を剥がすような音でまとまって外れた。剥がれたあとには、電線の表面に細い穴が列になって残った。だが金属は出ていない。穴の奥まで、ちゃんと黒かった。

その日の午後、バスの屋根に赤い粉が帯みたいに残った。洗っても落ちにくく、乾くと花びらの形だけが何百も浮いたと聞いた。運転手は皆、あの区間を通るとフロントガラスの上端に赤いものが張りつく、と言った。下から見上げると何も落ちていないのに、車内からだけ見えるらしい。まるで頭上を通過するとき、一度だけ花びらの群れが車体へ顔を寄せるように。

翌日の正午には、赤い塊は隣の電柱とのあいだへ移っていた。三日目にはさらに先。四日目には、一本ぶん丸ごとが赤い鱗で覆われ、陽に照らされても白く戻らなかった。満開の桜の下で、そこだけ別の季節が垂れているみたいだった。通りを歩く人は皆見上げた。写真を撮る者もいた。けれど画像にすると、赤はなぜか黒ずんで潰れ、ただ電線が異様に太って見えるだけだった。

気味が悪かったのは、その進み方だった。
赤い花びらは桜の枝に近づくのではなく、路線バスの進行方向に沿って、一日ごとに一径間ずつ移動していった。桜の下から交差点へ。交差点からマンションの前へ。まるで、昼にこの道を曲がってくるものの上を渡りながら、少しずつ棲み替えてくるみたいに。

管理会社が電力会社を呼んだ日、私はベランダから作業を見ていた。絶縁手袋の作業員が器具で赤い塊を挟むたび、花びらの群れは生き物みたいに全体で脈打った。何百枚も刺さっているのに、一枚も落ちない。代わりに、真下のバス停の屋根へ赤い影だけが降りた。形は花びらのままなのに、落ちた場所に何も残らない。ただ、影の重なったところだけ金属がくすみ、あとで見ると人の肩幅ほどの帯になっていた。

その夜、部屋の照明を消したあとで、天井の上を細いものが擦る音がした。
鳥でも鼠でもない。もっと乾いていて、紙を何百枚も束ねたまま引きずるような音だった。音は玄関へ向かってゆっくり移動し、最後に、ぺり、と昼間と同じ剥がれる音で止まった。チェーンを掛けに行くと、ドアの内側を渡る細い配線に、赤い花びらが列になって刺さっていた。

外の電線で見たのと同じだった。
違ったのは量だけで、こちらはもっと密だった。短い配線の上に、赤い花びらが何層にも重なって房になり、まるで小さな臓物を吊したみたいに膨らんでいた。触れる前から、チェーン受けの金具が赤く染まって見えた。電気は落ちていないのに、玄関灯だけがその房の下で脈を打つみたいに明滅していた。

翌日から、その路線バスは別の道を通るようになった。
それでも正午が近づくと、うちの玄関の向こうで、細い線が何かの重みでたわむ気配がする。覗き穴をのぞくと、廊下には誰もいない。ただ、ドアの上の隙間に、外からではなく内側へ向けて、赤い花びらが一枚ずつ増えていく。

今はもう、桜の散る速さより早い。
帰宅するたび、真っ赤な花びらが配線を食って奥へ進み、昨日まで見えていた黒が、少しずつ消えていく。

この部屋に来るまで、あと何本残っているのかだけは、
まだ数えていない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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