踊り場の白線

写真怪談

このアパートに越してきて最初に言われたのは、夜にゴミを出すときだけは足元を見ろ、ということだった。
古い建物の内階段は、白い鉄の段と手すりを真ん中の丸い柱が二つに割っている。昼間はただ薄暗いだけだが、夜になると踊り場の折れ目が柱の向こうへ隠れて、上りと下りの途中が少しだけ見えなくなる。管理人はそこを指して、「数えないほうがいい」と笑った。

最初は意味が分からなかった。
二階の自室から降りるとき、私は癖で段数を数える。十一段。毎回同じだ。けれど、燃えるゴミの日の前夜だけ、最下段に着く直前の足裏が、もう一度だけ固い角を踏んだ。白い段の縁を確かに越えたあとで、まだ一段ぶん残っている感触があった。見下ろしても何もない。柱の陰に、灰色の壁と暗がりがあるだけだった。

気のせいだと思っていたが、その違和感は足裏の感触だけでは済まなかった。
夜に階段を使ったあとだけ、時刻が合わなくなった。スマホで確認して部屋を出た時刻と、一階に着いてからの時刻が、なぜか一分ずれている。電波のせいだと思って腕時計も合わせたが、ずれるのは決まって下りたあとだけだった。上ると戻るわけではない。ただ、夜の階段を一往復するたび、私の帰宅時刻は少しずつ遅れていった。
仕事先のタイムカードは合っているのに、部屋の炊飯器の予約だけが合わない。深夜番組の録画が、見た覚えのない一分ぶん先から始まっている。なくしたのは大した時間ではないのに、その一分が毎晩増えていくと、生活の縁がじわじわ噛み合わなくなっていった。
管理人に話すと、年寄りは階段の踊り場を見上げてから、「夜だけだろ」とだけ言った。

三度目のゴミ出しの夜、私は試しに段の縁へ順番に小さな鉛筆印を付けた。
上から一、二、三。踊り場まで。柱の向こうの上段にも。翌朝、印は全部残っていたのに、踊り場の壁だけに新しい擦れが一本増えていた。靴底の先がこすれたような、白く細い横線だった。ちょうど、存在しない十二段目の高さに。

その日から、壁の擦れは毎朝一本ずつ濃くなった。
誰もぶつかった覚えのない位置に、平行な白線が何本も重なっていく。住人は皆、壁の汚れだと思っていたらしい。だが私には分かった。あれは壁の傷ではない。見えない段を踏んだつま先が、前へ抜けそうになって、とっさに擦った跡だ。
見えないのに、踏める。
踏めるのに、数えられない。
しかもそこでは、毎回一分だけ、時刻が剥がれていく。

怖くなって、それからは夜に階段を使わないようにした。
だが燃えるゴミの日だけは、一階の集積場所へ袋を持っていかなければならない。エレベーターのない建物で、それを避ける方法はなかった。
その夜は雨で、コンクリートの床が湿っていた。私は息を止め、柱の折れ目を見ないようにして一段ずつ降りた。十。十一。
次で終わる、と思ったところで、足が空中へ出た。
なのに落ちなかった。
靴裏の前半分だけが、何もないところにきちんと乗っていた。見えない縁が、足指の付け根に当たっていた。

柱の陰から、遅れて自分の呼吸が返ってきた。
真下には一階の床がある。けれど私の右足は、その少し上、確かに床ではない高さで止まっている。手すりを掴んだまま固まっていると、ゴミ袋の底が何かに軽く擦れて、しゃり、と乾いた音を立てた。見下ろすと、透明な袋の底に白い線が一本入っていた。コンクリートではなく、塗装された段鼻でしか付かない、均一な細い粉だった。

私はそのまま袋を放り、飛び降りるように一階へ逃げた。
落としたゴミ袋は破れていなかった。ただ、底に平行な白線が二本増えていた。ひとつは見えていた最下段のぶん。もうひとつは、あの、見えない一段のぶんだった。

翌朝、管理人が亡くなった。
自室で眠るように、という話だった。苦しんだ様子はないらしい。
ただ、遺品を片づけていた親族が妙なものを見つけたという。古い大学ノートが一冊あり、中にはこの階段の絵が何十回も描かれていた。どれも白い段と柱と踊り場だけの単純な図だったが、段数だけが一定しなかった。十一段、十二段、十三段。
最後のページには、震えた字で一行だけ書いてあった。
「踏まない夜を続けると、余った段が部屋まで上がってくる」

笑えなかった。
その晩、私は部屋の前で靴を脱ごうとして、つま先を何かに引っかけた。廊下は平らで、段などない。なのに足先だけが、半段ぶん高いものにつまずいたみたいに止まった。
視線を落とすと、ドアの前の灰色の床に、白い横線が一本だけあった。
階段の段鼻と同じ高さ、同じ幅の擦れ跡だった。
次の朝には、それが二本になっていた。

いま私は、夜になると家具を少しずつ奥へ寄せている。
床の途中に、見えない一段が増えていくのが分かるからだ。
まだ転ぶほどではない。足先が引っかかるだけだ。けれど昨日、帰宅してから玄関までの数歩を数えたら、いつもより一歩多かった。
失くした時間がどこへ積み上がっているのか、もう考えたくない。
ただ、朝になるたび、部屋の奥へ白い擦れが一本ずつ増えていく。
階段はもう使っていないのに、その段だけは、毎晩きちんと上がってくる。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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