最寄り駅へ抜ける近道として、その外階段は住人によく使われていた。左は木々に塞がれ、右は白い外壁と金網に挟まれた細い上りで、中腹には古い防犯カメラがひとつ付いていた。通るたび見上げる位置にあるので、私はあれが少し苦手だった。見られているというより、上から顔の高さを測られている気がしたからだ。
異変が出たのは、管理組合の防犯アプリに同じ通知が二重で届くようになってからだった。「人物を検知しました」。一分と空かず、もう一件まったく同じ通知が来る。だが添付された静止画には、いつも一人しか写っていない。灰色の上着で上がる会社員も、買い物袋を提げた住人も、石段の途中にいるのは一人だけだった。
はじめは木の枝だと思った。風で揺れた影を人に誤認したのだろうと。
ところが録画を確認すると、検知枠は影には出なかった。下の数段では通行人の顔にだけ四角い枠がつく。中ほどまで来ると、もうひとつの枠が、その人の頭の一段ぶん上に現れる。白い壁にも金網にも触れず、空いた場所だけをぴたりと追う。誰が上っても同じで、下りでは一度も出なかった。
妙なのは、その余分な枠が、本人の背丈に合わせて位置を変えることだった。子どもなら低く、大人なら高い。けれど距離だけは一定で、首の後ろから手の届かない高さを保ったまま離れない。
「ここ、途中から急に前を見たくなくなる」
住人の一人がそう言った。
「見上げると、もう近い気がするの」
意味はわからなかったが、録画を見るたび、その言葉だけは腑に落ちた。余分な枠は、いつも人の“上”にいた。
決定的だったのは、曇り空の昼に撮れた一本だ。
黒いバッグを斜めに掛けた男が階段を上ってくる。下のほうでは正常に顔を拾っていた枠が、中腹でふっと消える。代わりに、空中にあったもうひとつの枠だけが残った。男は立ち止まりもしない。背中を向けたまま上がっていくのに、アプリの表示は「顔を再認識」となり、次の瞬間、その枠が男の後頭部へ滑り降りた。
画面の中で認識されていたのは、顔のない背中ではなかった。
背中に付いた“前向きの何か”だった。
拡大すると、首の付け根の髪だけが湿ったように割れていた。雨は降っていない。風もない。なのにそこだけ、細く息を吹きかけられたみたいに毛束が左右へ分かれていた。別の日の映像でも同じだった。フードの縁が内側へ少し沈み、襟足に白い曇りが残る。アプリの記録には毎回「1人・2顔」と出ていた。
メーカーの点検員は、蔦か光の反射だろうと言ってレンズを拭き、感度を調整した。私は横で枝も払った。これで終わると思った。
その日の夕方、試験のためにもう一度階段を撮ると、通知は一件だけ来た。安堵して開いた静止画で、私は逆に息が詰まった。
誰も写っていない階段の途中、カメラの真下にだけ、小さな顔検知の枠が一つ出ていた。人の顔としては低すぎる。けれど、誰かがあと一段上がれば、ちょうど首の真後ろに来る高さだった。
気味が悪くなって、翌日、防犯カメラそのものを外した。
外壁の金具は錆びていたが、雨よけのフードの裏側だけが妙にきれいだった。汚れを拭おうとして、指が止まった。内側に、半月形の脂の跡が何本も並んでいたのだ。指紋ではない。唇でもない。もっと薄くて、同じ幅の弧が重なっている。よく見ると、その縁に、短い毛が三本貼りついていた。睫毛だった。全部、階段の下を向いていた。
撤去報告のため、私はスマホで空になった取付跡を撮った。
画面には白い外壁、古い石段、左からせり出す木の枝しかない。
それでもシャッターを切る前、顔認識の白い四角が一度だけ現れた。
私ではない。
私の目線より少し上、次に誰かが上ってきたら首の後ろに重なる位置だった。
それからあの階段を上るとき、住人たちは皆、無意識に顎を引くようになった。
見上げると合うのが、カメラの視線ではないと、もう知ってしまったからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

