手すりの体温

写真怪談

引っ越してから最寄り駅へ出るには、家の脇を落ちるあの階段がいちばん早かった。石垣と外壁に挟まれた細い下りで、晴れた昼は空がやけに青く見える。途中の白い手すりだけが新しく、いちばん上には黄色い柵が立っている。見晴らしのせいか、誰もいないのに、誰かに見下ろされているような気分になる階段だった。

異変に気づいたのは、三月のよく晴れた正午前だった。右の手すりに軽く触れながら下りていると、真ん中あたりの一か所だけ、裏側がぬるかった。日に焼けた金属の熱じゃない。手のひらを離したばかりの体温だった。表側は冷たいのに、指を掛ける裏側だけが、人肌みたいにやわらかい温度を残していた。

すぐ下を見た。誰もいない。階段はまっすぐ下の住宅へ落ち、その先の電柱まで見えていた。電線も揺れておらず、足音もなかった。なのに、次の支柱へ手を移すとそこは冷たく、そのひとつ下だけがまたぬるかった。まるで、ひとつ下の段で、見えない誰かがこちらと同じ速度で上ってきているようだった。

翌日、温い場所は一段ぶん上へずれていた。
その次の日も、またひとつ上。
私は気味が悪くなって、爪で支柱の根元に小さな傷をつけて位置を覚えた。四日後、その傷の真下の白い塗装にだけ灰色の曇りが付いていた。掌の脂ではなく、乾いたコンクリート粉を湿らせて押しつけたような跡だった。しかも指は五本とも上向きで、下から握らないと付かない角度だった。

それから階段を下りるたび、手すりの温度は少しずつ頂上へ近づいた。途中で立ち止まると、温もりも止まる。こちらが一歩進めば、ひとつ下の支柱が遅れてぬるくなる。試しに途中で振り返っても、下りの段には午後の日差しとコンクリートの影しかない。ただ、足元の踏面にだけ、ときどき丸く曇ったような濃い色が現れて、数秒で乾いた。尻でも膝でもなく、誰かが裸足の土踏まずを置いたような形だった。

いちばん嫌だったのは、音がしないことだった。こんな急な階段を上がれば、息も靴音も壁に返るはずなのに、手すりだけが順番にぬるくなる。ある日、私は上から下まで息を止めて待ってみた。白い支柱は全部冷えていた。次の瞬間、一番下の見えにくいところから、ひとつ、またひとつと、人肌の温度が上ってきた。誰の姿もないまま、ちょうど私の手が届く速さで。

逃げようとして、最後の一歩で黄色い柵を掴んだ。
そこが、いちばん熱かった。
春の陽だまりなんかではない。額や首筋よりも、もっと湿った熱だった。反射的に手を離したとき、内側の塗装に五本の筋がぬらりと残った。私の指より細く、長く、少しだけ開きすぎた五本だった。灰色の粉がこびりつき、その中央に、掌ではなく頬を押し当てたような楕円の曇りまであった。

それ以来、あの階段は使っていない。遠回りでも車道沿いを歩くようにした。けれど晴れた日の昼、坂の上から覗くと、誰もいない白い手すりの一か所だけが、ときどき鈍く曇る。下から上へ、ゆっくり順番に。

先週、玄関の内側にある短い補助手すりを拭いていて、気づいた。
裏側だけが、ぬるかった。
外へ出ていないはずの灰色のコンクリート粉が、上向きの五本指でそこに残っていた。ちょうど、うちの階段を上がりきった者が、次に掴む高さで。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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