あの店のたい焼きは、季節の餡を二つ並べる日だけ、閉店後のショーケースに曇りが残る。
苺餡と芋餡。色も匂いも違うのに、その夜だけはガラスの内側に、向かい合った吐息みたいな曇りが二つ、朝まで消えないと近所では囁かれていた。
最初に異変に気づいたのは、閉店前の片づけをしていた店員だった。
売れ残りを割って中身を確かめると、苺餡のはずの一匹の口の内側に、薄く歯形のような筋がついていた。焼く前には絶対に付かない跡だったし、誰かがかじったなら皮が割れるはずなのに、外側は完全なままだったという。
その日、廃棄に回したのは一つだけだった。
翌日から、焼き台の奥で奇妙なことが続いた。
苺餡を入れて閉じたはずの型から、焼き上がると芋餡の匂いが立つ。
芋餡のはずの腹を割れば、中はやけに赤く、どろりとしている。
入れ間違いだと笑って済ませようとしたが、具材の減り方は帳尻が合っていた。苺餡はちゃんと減り、芋餡もちゃんと減る。なのに、焼き上がったたい焼きの中身だけが、互いに少しずつ“食べ合わせた”みたいに混ざっていく。
三日目、店長は気味が悪くなって、売り場に出す前のたい焼きを全部ひっくり返して確認した。
すると、口元だけがわずかに湿っているものが混じっていた。
餡の水分ではない。もっとぬるくて、舌で舐めたあとみたいな湿り方だったという。
しかも決まって、隣に置かれた別の味のたい焼きの口元も同じように濡れていた。
向かい合わせに並べた二つだけが、そうなった。
店長はふざけ半分で、その二つを少し離して置いた。
けれど翌朝、トレイの上では元のように口先が向き合っていた。
従業員は誰も触っていない。ラップの皺までそのままで、たい焼きだけが、こっそり寄っていた。
それから、かじった客から苦情とも相談ともつかない電話が入るようになった。
「芋餡のたい焼きなのに、口の奥だけ苺の味がした」
「苺餡を買ったのに、最後のひと口だけ焼き芋みたいに喉へ残った」
最初は思い込みだと考えたが、四件目の客だけは、妙に具体的だった。
「半分まで食べたら、反対側に誰かの噛み跡が増えていた」
笑えなかったらしい。
袋の中でこすれたにしては深すぎる、上下きれいに揃った跡だったという。
その夜、店長は売り場の照明を落とし、厨房の奥からひとりで様子を見た。
ガラス越しのショーケースに、最後の二匹が残っていた。
苺餡と芋餡。
向かい合わせのまま、しばらく動かなかった。
だが店の外を人が通り過ぎ、シャッターの隙間から風が一度だけ入ったとき、片方の口がほんのわずかに開いた。
腹の合わせ目が、息をするみたいにやわらかく浮いたのだ。
次に、もう片方の口元がぬめった。
赤い餡が舌のようににじみ、白っぽい芋餡の縁へ触れた。
触れた、というより、舐めたように見えたと店長は言った。
その直後、ケースの内側に小さな曇りが二つ並んだ。
人の吐息の位置だった。
店長は悲鳴をこらえてケースを開け、二匹を離そうとした。
だが指でつまんだ瞬間、片方の腹がぐに、と内側から押し返してきた。
ただの餡の重みではなかった。
咀嚼の途中で頬がふくらむときの、あの粘ついた反力だった。
落とした一匹の口からは、芋でも苺でもない、薄桃色の半透明なものが少しだけのぞいた。
照明の下でそれはやけに生々しく、濡れた舌先に見えた。
翌日、その店は「機械不調」で臨時休業した。
焼き台も型も洗い直され、餡も廃棄された。だが片づけの最後に、流しの三角コーナーから見つかったものがある。
たい焼きの皮の欠片ではなかった。
誰かがひと口かじって飲み込まず、また別の口へ押し込んだみたいに、細く潰れた生地の端だった。
表面には、魚の鱗の焼き目と、内側へ向いた歯形が両方残っていた。
それ以来、その店では季節の餡を二つ同時に出さなくなった。
だが、ごくたまに昔を知らない新人が、苺餡と芋餡を隣り合わせに並べてしまうことがある。
その日の閉店後、ショーケースのガラスを拭くと、内側からしか付かない曇りが、必ず向かい合って二つ残るそうだ。
しかも片方には甘い苺の匂い、もう片方には焼いた芋の匂いがするのに、曇りの縁を指でなぞると、どちらの指にも同じ味が残るという。
ぬるくて、やわらかくて、誰かの口の中を一度通ってきたような味が。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

