あの喫煙所は、建物の脇に後から継ぎ足したみたいな小部屋で、黒い枠のガラスに SMOKING AREA の文字が白く貼られていた。夜になると室内の黄ばんだ灯りだけが浮いて、外から見ると中の人間はみな背中しか持たないように見える。私はそのビルの警備補助で、利用時間の二十三時を過ぎたら灰皿の砂を替え、戸締まりを確認する役目をしていた。煙草は吸わない。
最初におかしいと思ったのは、吸い殻の一本だけ、焼け方が逆だったことだ。
普通は先端が灰になり、口をつけた側は湿って潰れる。だがその一本は違った。フィルターの白が焦げ、紙の継ぎ目に沿って茶色い熱が食い込み、先端の葉だけがほとんど崩れていない。誰かが火を吸い込んだとしか思えない焼け方だった。
掃除のたびに一本だけ混じる。
銘柄もばらばらのはずの灰皿の中で、それだけは決まって甘い匂いがした。煙草の葉の匂いじゃない。濡れた紙を長く口に含んで、それを焦がしたみたいな、生ぬるい匂いだった。トングでつまむと、いつもフィルター側だけがまだ温かい。
気味が悪くなって、私は閉館前の十分だけ、外から人数を数えるようにした。
白いダウンの女が一人、黒いコートの男が一人、営業帰りらしい若い男が一人。三人入って、三人出る。ドアは一枚しかないし、見落としようもない。それなのに、施錠のあと灰皿を見ると、吸い殻は四本ある。そのうち一本だけが、また逆に焼けている。
何度か顔を覚えようとしたが、うまくいかなかった。
中の人間は見えているのに、いちばん奥に立つ黒い背中だけ、記憶に残らないのだ。背丈も、髪型も、コートの皺も見ているはずなのに、翌日になると輪郭が抜け落ちる。ただ、他の利用者が無意識にそいつの正面を空けて立つことだけは毎晩同じだった。狭い喫煙所のはずなのに、そこだけ一人分の余白がある。
ある夜、最後の三人が出たあと、私はまだ鍵を掛けずに外から様子を見ていた。
換気扇は回っているのに、薄い煙が上へ吸われていかない。床すれすれに溜まったまま、ゆっくり持ち上がり、人の口の高さで一度だけ小さくへこんだ。誰かがそこに立って、見えない肺で、ゆっくり一服したような凹み方だった。その直後、ガラスの文字のうち、A の横棒のあたりだけが内側から曇った。
私はその日、初めて灰皿の砂を水に落としてみた。
逆に焼けた一本が触れたところだけ、水が白く濁った。灰ではなく、息が溶けたみたいに、細かい泡がいくつも浮いた。鼻を近づけた瞬間、喫煙所の中ではなく、自分の口の中からあの甘い匂いがした。慌てて顔を上げたが、ガラスの向こうにはもう誰もいない。なのに室内の灯りだけが、まだ誰かの肩越しの色をしていた。
その三日後、灰皿には逆に焼けた吸い殻がなかった。
やっと終わったのだと思った。鍵を掛け、報告書を上げ、上着のポケットに手を入れたとき、指先がぬるいものに触れた。取り出したのは、あの吸い殻だった。フィルター側が黒く焼け、紙が唾でやわらかくふやけている。つぶれた歯形が浅く残っていた。持ち帰った覚えはない。けれど、それを握ったまま帰宅した夜から、うがいのあと排水口に一本分の灰が残るようになった。
今では喫煙所の鍵は別の者が閉めている。
それでも朝、洗面台の網にはときどき白い紙の輪が引っかかる。煙草のフィルターだ。片側だけが黒く焼け、噛んだ跡が薄く沈んでいる。鏡の前で歯を合わせるたび、その並びが自分の前歯とぴたり同じだと分かる。あの喫煙所で最後に吸っているのが誰なのか、もう考えないようにしている。ただ、二十三時を過ぎたガラス張りの小部屋の前を通ると、胸の奥だけが少し熱くなる。火は、いつも口をつける側から始まる。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

