渡りきるまで

写真怪談

息子を保育園へ迎えに行った帰り、私はいつも同じ角を渡る。
細い一方通行の道に、白い横断歩道が短く引かれていて、頭上には「止まれ」の赤い三角。夜になると、マンションの灯りと街灯の色が路面に溶けて、どこかやさしい場所に見えるのに、この角だけは昔から、少しだけ息を止めて渡る癖が抜けない。

奥の信号が青のあいだだけ、こちらの通りは静かになる。
だから皆、その合図を待って渡る。スマホを見たままの会社員も、重そうな鞄を肩にかけた学生も、眠そうに歩く女の人も。
そして不思議なことに、誰かが渡りはじめるたび、その青がほんの数秒、長くなる。

最初は気のせいだと思っていた。
けれど、青が長くなるのは決まって、誰かが少し疲れている夜だった。
足元を見ている人。
考えごとをしている人。
子どもの手を引いて、信号より荷物のほうを気にしている人。
最後のひとりのかかとが白線を離れるまで、奥の青だけが、じっと待っている。

町内では、あそこの信号は親切だ、なんて軽く言われていた。
でも、そんなふうに笑って聞くたび、私は胸の奥がざらついた。
この角で、母が死んだからだ。

まだ私が小さかった頃、右も左も見ずに飛び出した私を、母はここで突き飛ばした。
止まるはずの車が止まらず、代わりに母が倒れた。
助かったのは私だけだった。
それ以来、私は長いことこの道を避けていたけれど、息子の保育園が近くに決まってから、また毎晩この角を通るようになった。

息子には、その話をしていない。
教えるには、まだ早いと思っていた。

ある晩、横断歩道の手前で、息子が私の袖を引いた。
「ママ、あそこ」
止まれの標識の下を指さしている。
誰もいないはずのそこを、息子はじっと見ていた。

「白いひと、また立ってる」
私は喉が詰まって、聞き返せなかった。
「だれが?」
「ぼくたちが渡るの、見てるひと」

その夜も、奥の信号はなかなか変わらなかった。
私たちの前に、仕事帰りらしい男の人が一人。向こうからは買い物袋を提げた女の人が一人。
皆が渡り終えるまで、青は少しも急がなかった。
不自然なくらい、きれいに。

渡りきったあと、私は振り返った。
白線の上に、濡れてもいないのに、靴底の跡が一つだけ残っていた。
私のでも息子のでもない、小さくて古い、女ものの靴の跡だった。
それは横断歩道の真ん中で途切れていて、向こう岸には続いていなかった。

次の日から、息子は渡る前に空っぽの角へ向かって、軽く頭を下げるようになった。
誰に教わったわけでもなく。
私もつられて、小さく会釈する。
すると決まって、信号の青は少しだけ長くなる。

このあいだは、スマホに気を取られた学生が駆け込みそうになったところで、青がひと呼吸ぶん延びた。
昨夜は、杖をついたおじいさんがゆっくり渡りきるまで、車の気配がぴたりと止まっていた。
誰か一人のためではなく、その夜そこを通る“最後まで気を張れない人”みんなのために、あの角の青は待っているらしい。

怖いと思ったことがないわけじゃない。
でも、あの角で待っているものは、こちらを連れていこうとはしない。
ただ、渡らせる。
遅くなっても、ふらついても、うつむいていても、ちゃんと向こう岸へ着くまで。

息子はこの前、横断歩道の途中で急に立ち止まり、何もない左側へ向かって手を振った。
そして向こう岸へ着くと、当然のように言った。
「おばあちゃん、きょうもおしごとおわったね」

その瞬間、奥の青がようやく切れて、赤に戻った。
ずいぶん待たせてしまったはずなのに、不思議と急かされた感じはしなかった。
昔の母は、私が靴ひもを結び直すあいだも、信号の変わるぎりぎりまで笑って待ってくれる人だった。
たぶん今も同じなのだろう。
最後のひとりが白線を渡りきるまで、赤には戻らない。

今夜もまた、あの角を通る。
止まれの標識の下には、もちろん誰も見えない。
それでも、息子はきっと頭を下げるし、私もそうする。
そして少し長すぎる青のあいだに、知らない誰かまで安全に渡っていく。

母はもう家へは帰れなかったけれど、帰る途中の人たちを、まだ見送っている。
あの角はそのことを、毎晩、信号の色で知らせている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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