基準体の寝顔

ウラシリ怪談

ある研究で、臓器ごとではなく、全身の細胞配置を三次元で記録し、異なる個体同士を同じ基準の上に重ねて比較できる“全細胞アトラス”が作られたそうです。

その作業では、組織を透明にして、まだ小さな全身標本まで撮影できるようにしたといいます。光を当てると、色の抜けた身体の奥に、点のような細胞の位置だけが静かに浮かぶ。そういう、妙に綺麗な画像が大量に並んだそうです。

最初の異変は、比較のために複数の標本を同じ基準座標へ重ねた時に起きたと聞きます。

どの個体を使っても、どの条件の画像を載せても、胸の中央にだけ、説明しづらい密度の偏りが残ったそうです。臓器ではない。血管でもない。標準化の癖だろう、と最初は片づけられたといいます。ひとつ外しても残る。別の組み合わせでも残る。ただ、全身を重ねた時にだけ、そこへ“何か”が寄ってくるように見えたそうです。

一細胞解像度の点群ですから、単独ではただの粒にしか見えません。そこで、断面を薄く刻むように順番どおり出力し、透明なシートに重ねて確認したそうです。一枚ずつでは、何もない。二十枚、三十枚と束ねても、まだ分からない。けれど、ある厚みまで揃ったところで、粒の並びが急に意味を持ったといいます。

寝顔でした。

横向きの、小さな顔だったそうです。目を閉じ、鼻筋があり、唇があり、耳の縁まであったといいます。標本そのものの顔ではありません。どの個体にも属していないのに、重ね合わせた先にだけ現れる、もうひとつの顔だったそうです。

それが怖かったのは、枚数を増やすほど輪郭がはっきりしていったからです。普通なら、無関係な点はぼやけるはずです。ところが、その寝顔だけは逆で、まつげの線まで細く締まり、閉じたまぶたの重みまで見えてきたそうです。まるで最初からそこにいて、標本が増えるほど“思い出されていく”みたいに。

誰も、それを顔だとは言わなかったそうです。言ってしまうと、次の作業に支障が出る気がしたのでしょう。記録上は、最後まで「中央部の非特異的集積」とだけ残されたと聞きます。

ただ、確かめようとした人はいたそうです。

画面の中で寝顔が最もはっきり見える角度を割り出し、その向きに合わせて、透明化した全身標本を実物の台に載せ直したといいます。標本の向こうから強い光を通し、撮影時と同じ高さまで目線を落とす。画面で見えていたものが、現物でも同じように見えるかどうか――それだけを試すつもりだったそうです。

最初は何もなかったといいます。透明な肋、薄い影、奥でほどけた臓器の輪郭。けれど、顔をほんの数ミリだけ傾けた瞬間、胸の内側の“空いているはずの場所”に、あの寝顔がぴたりと重なったそうです。

画面の中と同じ位置でした。

閉じた目。細い鼻。少し開いた唇。標本の内部にあるのではなく、光と標本のあいだ、正確な角度にだけ生まれる隙間に、顔だけが差し込まれていたといいます。ずれると消える。角度を戻すと、またいる。そういう見え方だったそうです。

その人は、しばらく動けなかったそうです。まぶたが薄すぎて、向こうが透けて見える気がしたからだといいます。閉じているのに、見られているようだった、と。

次の瞬間、そのまぶたの線が、わずかに割れたそうです。

眠っていた顔が、目を開けたのではなかったといいます。閉じたままのまぶたの下で、眼球だけがこちらへ寄った。薄い皮膚の向こうで、丸いものが一度だけ、確かに動いたのだとか。

悲鳴は上がらなかったそうです。声を出すより先に、照明が落とされ、標本には遮光布が掛けられました。以後、その角度で実物を覗く手順は、記録から消されたと聞きます。

けれど、保管室では時々、透明な標本箱の向きが揃っていることがあるそうです。誰も触っていないのに、どれも同じ角度へ、ほんの少しだけ回っている。ちょうど、正面からではなく、あの寝顔が最も見えやすい向きへ。

箱の中にあるのは、どれも動かないはずの標本です。ですから、その向きだけは、誰も確かめないそうです……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

共同発表:全臓器・全身の全細胞を網羅する3次元アトラスを構築~次世代の病理診断や創薬研究への展開に期待~

共同発表:全臓器・全身の全細胞を網羅する3次元アトラスを構築~次世代の病理診断や創薬研究への展開に期待~
JST 戦略的創造研究推進事業 ERATOにおいて、東京大学 大学院医学系研究科 機能生物学専攻 システムズ薬理学分野の上田 泰己 教授(久留米大学 特別招聘教授 兼任)、吉田 将太 客員研究員、松本 桂彦 客員研究員らの研究グループは、全臓器・全身の全細胞を網羅する3次元アトラス(CUBIC Organ/Body Atlas)を構築しました。

 

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