二つ目の輪

晩酌怪談

夕方の客足がいちど切れる四時台、店内は妙に広く見える。
入口の曇った明るさが床までのびて、カウンターの端に置いた黒い丼だけが、そこに先に夜をためているようだった。
私はその時間帯の補充係で、白い卓上ボトル、七味缶、楊枝立て、黒い箸筒をいつも同じ順番に並べ直していた。

最初に気づいたのは、客ではなく音だった。
鶏そばを頼んだ常連がひと口目を啜る。
すると、きっかり半拍遅れて、もうひとつ啜る音が返ってくる。
隣の席でも入口でもない。
丼の向こう、卓上の調味料が並ぶ狭い空間から、誰かが遠慮して啜ったような短い音だけが返る。
振り向いても誰もいない。
客が食べ終えて席を立ったあと、私はその席を拭こうとして手を止めた。
丼の向こう側の木のカウンターに、茶色いつゆの飛沫が半円に散っていた。
客が手前から飛ばしたならこちら側へ飛ぶはずなのに、その飛沫だけは奥から手前へはねた向きで残っていた。

翌日、同じ客がまた同じ席に座った。
ひと口すすってすぐ、首を傾げた。
「右側だけ、なんか変だな」
指したのは、ほうれん草の載った側だった。
左はちゃんと湯気を立てているのに、右半分だけが妙に静かで、表面が冷めたみたいに揺れない。
作り直しを申し出たが、客は笑ってそのまま箸をつけた。
そしてまた、ひと口ごとに半拍遅れの啜りが返る。
食べ終わったあと、私は卓上を見て背筋が冷えた。
白い卓上ボトルも、七味缶も、楊枝立ても、受け皿ごとまとめて客のほうへずれていた。
さっき補充したばかりで、壁際にきっちり揃えたはずなのに、三つとも同じだけ手前へ引かれていた。

気味が悪くなって、その日の閉店後に全部洗った。
受け皿ごと外して拭き、元の位置に戻した。
次の日も同じ席に丼が置かれ、同じように啜る音が二つ鳴った。
客が半分ほど食べたところで、今度は私のほうが異変に気づいた。
客が箸を入れているのは左側なのに、右側の麺まで一緒に沈んでいく。
ほうれん草の脇のつゆだけが、見えない口で冷まされているみたいに細かく波打っていた。
その客は食べ終わったあと、首をひねってこう言った。
「一杯食った感じがしないんだよな」
下げられたトレーには、丼の輪とは別に、もうひとつ薄い汁の輪が残っていた。
丼の少し奥、ちょうど卓上ボトルの手前に重なる位置だった。
そこには何も置いていない。
それでも、そこだけまるで小ぶりの器が一緒に載っていたみたいに、丸く濡れていた。

四日目には、客のほうもはっきり怖がった。
「さっきから、誰か後で食ってる?」
冗談めかして言った声が、途中から本気の細さに変わった。
その日は右半分だけ湯気が立たないどころではなかった。
客が麺を持ち上げるたび、箸を入れていない右半分の麺まで、つられるように少し浮いて、するりと減っていく。
見比べると、確かに両側が同じ速さで少なくなっていた。
ひと口のあとにひと口、啜る音はもう店の奥ではなく、ほとんど客の肩口から返っていた。
食べ終わるころには、黒い箸筒の上のほうの箸が何本も前へずり落ち、誰かがまとめて抜いて戻したみたいに斜めに崩れていた。

五日目、最後の客がその席に座った。
店内には私しかいなかった。
ひと口目のあと、返ってきた啜りは、すぐ耳元で鳴った。
私は反射的にカウンターへ身を乗り出した。
黒いつゆの表面に、天井灯と入口の明かりが映っている。
その右半分だけ、箸も入っていないのに水面がすうっと奥へ引かれた。
誰かがそこに口を寄せたときにできる、あの浅いへこみ方だった。
客が箸を止めて言った。
「あれ、減り方おかしくないか」
確かに客は半分以上食べているのに、丼はまだ七分目ほど残って見える。
その代わり、丼の向こうの白い卓上ボトルが、ことりと音を立てて傾いた。
受け皿の上でほんの少し回り、飲み口の先から茶色い筋が一滴だけ垂れた。

客が立ち上がった瞬間、箸筒の中の黒い箸がいっせいに前へ滑った。
一本や二本じゃない。
上に見えていた数本がまとめて、誰かの手に引かれたみたいに客席側へせり出した。
私は悲鳴も出せず、ただトレーを見た。
そこには、丼の輪の奥にもうひとつ、今まででいちばんはっきりした汁の輪があった。
小ぶりの器を置いた跡にしか見えない、くっきりした円だった。
しかもその輪の前には、啜った汁が口元から落ちたみたいな細い飛沫が、二、三滴だけ並んでいた。

翌朝、私は箸筒も卓上ボトルも受け皿も新しいものに替えた。
なのに開店前、その席にだけ置いたはずの卓上セットが、また半歩ぶん手前へ寄っていた。
紙ナプキンの束も、いちばん上の一枚だけが、使ったあとのように中央からへこんでいた。
店長は「拭いたときにずれたんだろ」と言ったが、私はもう違うとわかっていた。

それから私は、あの席にだけ卓上のものを詰めて置かない。
箸筒も、卓上ボトルも、少しだけ客席側へ逃がして並べる。
啜る音が返ってきたとき、向こうが食べやすい位置を、もう覚えてしまったからだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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