緑灯の訪問者

写真怪談

夜の集合住宅は、遠目には整って見える。等間隔の灯り、等間隔の扉、等間隔の沈黙。
けれど近づくほど、均一さは人を孤独にする。誰の生活も同じ形に見えるから、ひとつだけ違うものが混ざった時――それが「異常」だと気づくまでに、時間がかかる。

そのマンションは、入居者の多くが高齢者だった。夫婦で暮らす部屋も多く、ベランダには同じような洗濯ばさみが並び、玄関には同じような手すりがつけられている。
私は月に一度、自治会の「見守り連絡」の手伝いで、数件の安否確認に回っていた。訪問看護でも介護でもない、ただの“近所の若い手”として。

外階段を上がると、長い共用廊下が闇に吸い込まれて伸びている。自転車置き場の列が黒く沈み、壁沿いの小さな照明だけが、緑がかった光を落としていた。
その緑灯は、妙に明るい。遠くの白い蛍光灯よりも、近い場所の温度を下げるような光で、壁のブロックに薄い藻の影を浮かび上がらせていた。

一番奥の部屋に住む老夫婦――佐伯さん夫妻(仮名)を訪ねた夜だった。
夫は腰を悪くし、妻は最近物忘れが増えたという。玄関先の呼鈴を押すと、妻が出てきて、いつも通りの笑顔で私を迎え入れた。

「今日も助かるわねえ」
そう言って茶を出し、他愛のない話をする。血圧の話、寒さの話、ゴミの日の話。
その中で、妻が何気なく言った。

「この間ね、○○号室の佐野さんが戻ってきたのよ」
「……戻ってきた?」
「ほら、亡くなったじゃない。夏に。救急車も来て……。でも昨日、廊下ですれ違ったの」

私は、背中がほんの少し冷えた。
佐野という名字に心当たりがあった。確かに夏、孤独死で問題になった部屋だ。廊下の掲示板に「しばらく○○号室は立ち入り禁止」と紙が貼られていたのを覚えている。
妻は、話を続けた。

「声は掛けなかったの。だって、“もう”って分かってるから。だけどね、佐野さん、鍵を持ってたのよ。ちゃんと、あの部屋の鍵」

私が帰る頃には、外はさらに暗くなっていた。
廊下に出ると、蛍光灯の白さが肌に刺さる。階段の方からは誰の気配もない。自転車の列も静かだ。
ただ、緑灯だけが、さっきより強く光って見えた。

その時、奥の方――佐野さんの部屋があった方向から、ゆっくり歩いてくる影が見えた。
影は“人の形”をしている。背中が少し丸く、片方の肩が下がっている。
私の足は止まった。足音は聞こえない。聞こえないのに、近づいてくる速度だけが分かる。

その人物が白い灯りの下に入った瞬間、顔は見えなかった。
いや、見えないのではない。見えてはいけない角度に、きれいに隠れている。
帽子もフードもないのに、眉から上が影に沈み、目元が“空白”のように見えた。

手には、鍵束があった。
金属の輪がいくつも重なり、揺れれば音がしそうなのに、音がしない。
それだけで、この人が「ここにいるはずではない」と、体が理解してしまう。

すれ違いざま、相手はほんの少しだけ、私に顔を向けた。
向けたのに、目が合わない。目を向けられている感覚だけがある。
そして、その人は緑灯の横を通り過ぎた。

緑灯が、一瞬だけ暗くなった。
消えたのではない。光が“吸われた”ように薄くなり、壁の影が濃くなった。
私の皮膚の表面が、冷たい水で撫でられたように粟立った。

その人物は、奥の扉の前で止まった。
封鎖されているはずの部屋――夏に亡くなった人の部屋。
扉には今も、管理会社のテープが斜めに貼られている。誰も触れていないはずの、埃っぽいテープ。

相手は鍵束から一本を選び、鍵穴に差し込んだ。
テープがあるのに? 鍵は入るのか?
そう思った瞬間、金属が回る“感触”だけが、こちらの耳の奥に伝わってきた。音ではない。骨に直接届くような、鈍い回転。

扉は開かなかった。
けれど、鍵を回したあと、その人物は――何事もなかったように、扉の前に立ったまま、動かなくなった。

その姿勢が、あまりに自然だった。
まるで「開ける必要がない」と知っているみたいに。
まるで、扉の向こうへ入るのではなく、“扉そのもの”になろうとしているみたいに。

私は視線を外し、階段へ向かった。走らなかった。走れば、背中を見せる。
背中を見せたら、何かが“追いつく”気がした。

翌日、自治会の担当者に連絡して、管理会社にも伝えた。
「封鎖部屋の前に、誰かがいた」とは言わず、「昨夜、廊下で不審な人影を見た」とだけ。
管理会社は「確認します」と言い、数日後、封鎖のテープを張り替えたらしい。

だが、張り替えた翌朝、佐伯さんの妻が泣きながら電話してきた。
「ねえ、また来たのよ。廊下に。今度は、うちの前まで」

私が駆けつけると、佐伯さんの玄関扉の下に、細い“擦り跡”が何本も残っていた。
まるで金属の輪を引きずったような、規則的な線。
そして、呼鈴のプレートの下に、見慣れない小さな札が貼られていた。

【来訪 0:00】
黒い文字で、ただそれだけ。

「こんなの、誰が貼ったの?」と聞くと、妻は首を振った。
「分からないの。でも……夜中に、呼鈴が鳴った気がするのよ。音はしないのに、“押された”って分かるの。胸の奥が、押されるみたいに」

私は玄関の外へ出て、廊下を見た。
緑灯が、いつもより明るい。
ブロック塀の影が濃く、まるでそこだけ、夜が厚い。

その明るさの中に、違和感があった。
廊下の床に、細い線が続いている。
擦り跡だ。金属の輪を引いたような線が、佐伯さんの部屋から奥へ、奥へ――封鎖部屋の前まで、一本も途切れず続いていた。

封鎖部屋のテープは、張り替えたはずなのに、少しだけ浮いていた。
指で触れると、粘着の感触が弱い。
まるで、内側から何度も押されて、疲れているみたいに。

テープの隙間から、ふと、冷気が漏れた。
腐臭でもカビでもない、ただの冷たさ。
夏に終わったはずの部屋から、冬の深夜の廊下みたいな冷気が、細い息のように出てくる。

私は息を止めた。
止めた息の中で、また“押された”感覚がした。呼鈴の音の代わりに、胸の奥が押される感覚。
その押し方が、ゆっくりで、丁寧だった。
高齢者がボタンを押す時の、確かめるような圧力。

佐伯さんの妻が、背後で小さく言った。
「……ほらね。いるのよ。佐野さん、まだ“訪ねてくる”の」

その夜から、マンションの数軒で同じ札が見つかった。
【来訪 0:00】
貼られる場所は、呼鈴の下、あるいは表札の横。
誰もその時間に起きていないのに、札だけが増える。
増えるのは、老夫婦の部屋ばかりだった。

管理会社は防犯カメラを確認したという。
だが映像には、誰も写っていない。
写っていないのに、緑灯の光だけが、毎晩零時に一瞬だけ薄くなる。
そして、翌朝になると、どこかの玄関にまたひとつ、札が貼られている。

佐伯さんの部屋の札は、剥がしても剥がしても戻った。
糊の跡もない、新しい札が。
最後に剥がした時、妻の指先に、金属の冷たさが残ったという。

「鍵を持ってるのよ」
妻は震える声で言った。
「亡くなった人ほど、鍵を手放さないの。だって……戻る場所が、鍵の先にしかないから」

そして、三度目の零時が過ぎた朝。
佐伯さんの夫が、玄関で倒れて見つかった。
扉は内側から施錠されていたのに、呼鈴の下には札があった。

【来訪 0:00】
その文字の横に、もうひとつ小さく、手書きのような線が足されていた。

【同伴】

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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