救助用ロープがほどけるまで

ウラシリ怪談

ある国の有人宇宙計画で、「最大動圧下の緊急脱出試験」が行われたそうです。空がいちばん重くなる瞬間に、船を切り離して逃がす。その帰還カプセルは海上に安全に着水し、海での捜索・回収も、今回が初めてだった――そう伝えられています。帰還カプセルは複数回の再使用を前提に作られている、とも。

そして、その試験は“無人”で行われたそうです。誰も乗せず、最初から内部は空のまま。だから回収作業も、命を助けるためではなく、機体を傷めずに持ち帰るための手順だったといいます。

初めての海上回収では、手順が増えます。波の状態、視界、回収船の揺れ。吊り上げの角度。濡れた外板の温度。どれも机上の図面どおりにはいかない、と聞きます。

回収に当たった船の乗員が、あとから不思議がっていたのは、カプセルに取り付けた救助用ロープの動きだったそうです。波があるのに、ロープは水面で踊らず、たるみもせず、張ったまま真下へ沈んでいった。まるで海の下から、ゆっくり手繰られているみたいに。

吊り上げたカプセルは、外から見る限り正常でした。焦げも、割れも、変形もない。けれど、甲板に降ろした瞬間に、底から一度だけ鈍い音がしたそうです。波の衝撃音ではなく、内側で何かが体重をかけたような、湿った「ぐっ」という音。

ハッチを開ける前に、乾燥の確認をしたそうです。海上着水なのだから、多少の濡れは想定内です。それでも内部は保護されるはずで、再使用のためにも、濡れは最小でなければならない。

ところが、開けた瞬間に漂ったのは、潮の匂いではなく、干潮の“底”の匂いだったそうです。水が引いたあとに残る、生き物のない窪みの匂い。内部は乾いていたのに、匂いだけが、甲板の上で膨らんだといいます。

座席は空でした。もともと無人なのだから、それは当然です。計器も、配線も、断熱材も整っている。なのに、胸のベルトだけが、誰もいない中央へ向かって、極端に締まっていたそうです。引っ張れば戻るはずの遊びがなく、まるで「いま外したばかり」みたいに。

断熱材の一部には、指では作れない細い溝が残っていました。内側から外へ向かう溝。何本も重なり、途中で掠れて終わる。爪が滑ったような痕だったそうです。けれど、そこは手が届きにくい位置で、座席に座ったままでは届かない場所でした。

もっと妙だったのは、緊急脱出のレバーです。試験で一度引いたなら、整備で必ず“戻す”のだそうです。ところがそのレバーは、戻っているのに、濡れていたといいます。水滴が付いているのではなく、濡れた皮膚の跡のような艶が、握った形のまま残っていた。しかも艶は、内側から握った形で付いていたそうです。

無人試験なのに、誰かの握り跡がある。そう言い切ってしまうと安易だから、関係者は「材質の癖だ」と言ったそうです。けれど艶は布で拭いても消えず、乾かしても残り、触れるとわずかに“温度”が違ったといいます。冷たい金属でも、温かい樹脂でもない、体温の名残だけがそこにあった、と。

カプセルは再使用のため、洗浄と保管に回されたそうです。ところが保管庫へ運ぶ途中、救助用ロープを片付けていた乗員が気づいたといいます。ロープの繊維の間に、砂が噛んでいた。海上に出たのは数時間のはずなのに、砂は乾ききっていて、古い浜辺のように白かった。

その砂は、叩いても落ちにくかったそうです。引き抜くと、糸が一本だけ切れ、切れた先端が“結び目”になっていた。誰かが結んだ形ではなく、濡れた髪が絡まって固まったような結び目。触れるとほどけ、ほどけた途端に、干潮の底の匂いが一瞬だけ濃くなったといいます。

最大動圧下での緊急脱出――空が最も重い瞬間に、逃げるための仕組み。海に落ちても回収できるようにするための仕組み。複数回、再使用できるようにするための仕組み。

その三つの仕組みが揃ったカプセルが、初めての海上回収で持ち帰ってしまったものが「何」だったのか。内部は最初から空だったのに、締まったベルトと、内側からの溝と、握り跡の艶と、白い砂だけが残ったそうです。

再使用の予定は、発表の中では変わらないままだといいます。けれど、保管庫の前を通ると、干潮の底の匂いがする日がある――そんな報告だけが、誰にも引き取られずに残っているそうです……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

中国、有人宇宙船帰還カプセルの海上捜索・回収を実施 | Science Portal China

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