6番改札のICだけが消えない

写真怪談

改札機の並びは、いつ見ても同じ顔をしている。緑の縁、擦れた金属の腹、注意のピクトグラム。人が流れれば、ただ開いて閉じる。それだけのはずだ。

夜勤に入って三週目、私はようやく“音”の違いを聞き分けられるようになった。通る人の癖、タッチの強さ、迷いの一拍。機械は無表情でも、駅は人でできている。

終電が出て、シャッターが降り、コンコースの足音が薄くなる。清掃の時間になると、改札の列の向こう側だけが広く、やけに明るい。遠くで誰かが歩いているのが見えるのに、こちらには一人も来ない。そんな“空白”が、駅には毎晩生まれる。

最初の違和感は、6番のレーンだった。

閉め作業のチェックで電源表示を確認していたとき、6番だけ、正面の「IC」の文字が妙にくっきり点いていた。ほかのレーンも点いている。なのに、6番の赤は、まるで“さっき触れた指の熱”が残っているみたいに濃かった。

私は気にしすぎだと思い、腰の端末で通過ログを開いた。終電後は通過ゼロのはず。表示は、確かにゼロだった。

その瞬間、真横で「ピ」と鳴った。

短い電子音。人がタッチした時の音にそっくりで、しかも距離が近すぎる。反射で顔を上げると、6番の矢印が緑に灯っていた。通行許可の矢印。誰もいないのに。

ゲートの扉が、するりと開いた。空気だけが通って、扉が閉じる。人の影は落ちない。風もない。なのに、確かに“ひとり分”の通過があったみたいに、機械だけが儀式を終えた顔をした。

そして、6番のゴムの縁の上に、何かが置かれていた。

パスケースだった。子ども用の、小さな透明窓のついたやつ。革はふやけてもいないのに、指でつまむと妙にしっとりして、体温みたいなぬるさがあった。落とし物にありがちな埃もついていない。今、ここに“置かれた”。

私は立ちすくみ、すぐに監視カメラの確認に回った。映像には、誰も映っていない。けれど、6番の前だけ、一瞬だけ画面が白く霞んだ。シャッターを切り損ねた写真みたいに、光が滲んでいる。

ログをもう一度開くと、数字が増えていた。

通過回数が、1。

カードIDは空欄。時刻だけが、きっちり残っている。00:06。

翌朝、遺失物窓口に若い母親が来た。子どもが泣きながら言うのだそうだ。「きのう、かいさつで、てがかえしてくれた」と。

母親は困った顔で笑っていた。私も笑って返した。落とし物は、よくある。拾ってくれた人がいたのだろう、と。パスケースを返すと、子どもは胸に抱えて、なぜか一度だけ改札の方を振り返り、深く頭を下げた。

その日から、6番の前には“置かれる”ようになった。

手袋。名札。鍵束。切符入れ。落とし主の気配が濃いものほど、清潔で、濡れていないのに、触れると少しだけ湿り気がある。まるで、握りしめられていた時間そのものが、まだ手のひらに残っているみたいに。

私は怖かった。正直に言えば、毎晩、6番を避けたかった。けれど、同時に、腹の底で妙な安心が育っていくのも感じていた。

落とし物が“正しく戻る”ことほど、駅で救いになるものはない。

人は、返ってきたものに自分の時間がついていると信じる。失くしたままだったら、そこに落とした日の後悔だけが残る。戻ってきたら、最後に「間に合った」が残る。

“誰か”は、きっとそれを知っている。

ある夜、私は試した。遺失物の棚の奥に、持ち主が現れないまま一週間が過ぎた小さなぬいぐるみのストラップがあった。タグには薄い字で、ひらがなの名前。もう読めないほど擦れている。

私は閉め作業の後、そのストラップを6番のゴムの縁にそっと置いた。

しばらくしても何も起きない。やはり気のせいだったのか、と肩の力が抜けた瞬間――背中側で、衣擦れの音がした。

振り返っても誰もいない。なのに、6番の矢印だけが緑に点いた。

「ピ」

音が鳴り、扉が開き、閉じる。その一連が終わった後、私が置いたストラップは消えていた。

代わりに、そこにあったのは、古い駅員用の鍵だった。金属の輪に、白い札。黒い文字で「6」。

胸の奥が、変な冷え方をした。これは、落とし物ではない。駅の備品だったはずだ。今、ここにある理由がない。

翌日、古株の先輩に聞くと、先輩は少しだけ黙ってから、視線を改札の方向へ流した。

「昔、ここで倒れた人がいる。夜勤明けの、改札の並びでな」

詳しい話は、誰も語りたがらない。ただ、その人は遺失物の整理が得意で、落とし主を見つけるのが早かった。名前も知らないのに、電話番号まで辿り着くような人だった、と。

「…あの人な。よく言ってたんだよ。“返ってくると、時間が戻るから”って」

私は、6番の鍵を握ったまま、しばらく言葉が出なかった。

その夜、00:06。私は6番の前に立っていた。怖さと、確かめたい気持ちが半分ずつ。

「もし、まだここにいるなら」

声にしないで、喉の奥で呟いた。機械は何も返さない。けれど、赤い「IC」の文字が、いつもより静かに灯っている。

私は掌を、カードリーダーに置かなかった。代わりに、6番の鍵をゴムの縁にそっと置いた。返すように。

「ありがとう」と、今度は小さく声にした。

風のない改札で、空気が、ふっと動いた。金属の腹に映る蛍光灯の筋が、ほんの一瞬だけ揺れた。

「ピ」

音が鳴る。扉が開き、閉じる。

そのとき私は見た。人の影ではない。輪郭だけが薄い、誰かの“立っている”気配。目の高さが少し低くて、両肩が細い。髪が濡れているように見えた。顔は、最初から最後まで、こちらを向かない。

その気配が、改札の外側へ、静かに抜けていった。

ゴムの縁の上から、6番の鍵は消えていた。

代わりに、そこに小さな紙片が残っていた。改札機のメンテナンス用の紙ではない。メモ用紙の切れ端に、鉛筆の細い字。

「おかえり いけるよ」

翌朝、遺失物窓口に、白髪の男性が来た。手のひらに握りしめた古いストラップの写真を見せ、「これと同じのを探している」と言った。

昨日、私が置いたストラップだ。消えたはずの。

私は棚からそれを出し、差し出した。男性は受け取ると、息を詰めるようにして笑い、それからぽろりと涙を落とした。

「妻が、昔ここで働いてたんです。子どもに買ったやつでね。どこかで失くして…ずっと、見つからないままだった」

男性は、ストラップを胸の前で握りしめ、改札の方向に向かって、丁寧に頭を下げた。まるで、そこに誰かが立っているのが当然みたいに。

その日の終電後、私は6番を見に行った。

「IC」の赤は、いつもの明るさだった。矢印は消えている。音もしない。扉も動かない。

ただ、金属の腹の下のほうに、今までなかった細い擦り傷が一本だけ増えていた。斜めに、外へ向かう矢印みたいな線。

拭いても消えない。傷は、最初からそこにあったように馴染んでいる。

それ以来、00:06に通過ログが増えることはなくなった。6番の前に置かれる落とし物も、ぴたりと止んだ。

けれど、遺失物窓口には時々、説明のつかない“早さ”で戻ってくる品がある。

誰が拾ったのか分からないのに、持ち主の手元に間に合うもの。

そんなとき私は、改札の列の一番端、6番のほうを思い出す。

駅は今日も人でできている。開いて閉じるだけの機械のはずの場所で、たった一度、時間が戻る音を聞いたことがあるからだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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