足を数える波紋

写真怪談

送られてきた一枚の写真には、濁った水路が写っていた。左下に一羽、黒っぽい羽の鴨が静かに浮かんでいる。右側にはもう一羽、尾だけを水面に突き立て、オレンジ色の脚を二本、空へ向けている。潜っているのだろう。

だが、その潜り方が妙だった。脚が“蹴っている”のではなく、“掴んでいる”ように見える。水面に浮く二本の橙が、指先みたいに開き、握り、また開く。

周囲には輪が広がっている。波紋というより、円を描いて押し出された跡だ。右上の護岸の影や、何かの反射が水面で歪んでいて、輪の外側ほど“形”が濃くなる。まるで水が、上にあるものを写すのをやめて、別のものを写し始めたみたいだった。

写真を送ってきた知人は、ただ「変じゃない?」とだけ書いていた。彼は川沿いの管理会社に勤めていて、昼休みに通るだけの水路だという。餌をやるでもない。立ち止まって眺めただけ。

あの場でおかしかったのは、音だと彼は後から言った。水鳥が潜るときの「ぼこっ」という軽い音ではない。もっと深い、排水口が吸い込むときの低い喉鳴り。水面が息を吸うみたいに、輪の中心が一瞬だけ沈んだ。

沈んだのは水だけじゃなかった。

尾を突き立てた鴨が、戻らなかったのだ。脚だけが、しばらく水面の上にあって、オレンジ色がかすかに震え、最後には“引っ張られる”ように消えた。そこから先は、何も浮いてこない。泡も、羽毛も、濁りも。輪だけが残って、輪だけが広がり続けた。

その輪は、護岸の壁に当たっても止まらなかった。壁を越えるみたいに形を変え、波打ちながら、彼の靴の先へ寄ってきた。濡れるはずのない靴の甲に、水の輪郭だけが触れた。冷たさは、まだ来ないのに。

彼は反射的に後ずさりして、そこで初めて写真を撮った。送られてきたのは、その一枚だ。

印刷して見たとき、私は息を止めた。輪の中に、輪とは別の細い線が走っている。水面に浮く油膜の模様に似ているが、どこか“文字”のようでもあった。読み取れないのに、読ませようとする線。

そして輪の中心、潜った鴨がいたはずの場所に、小さな黒い楔形がある。尾の先端のようにも見えるし、濡れた髪の束にも見える。どちらにしても、水面の上にあるべき形じゃない。

その晩、彼の家の流し台で同じ輪が出た。蛇口を閉めたはずなのに、排水口の周りに波紋が立つ。水滴が落ちているわけでもない。なのに、輪が生まれて、静かに広がる。

輪が増えるたび、洗い場の底に小さな橙がちらついたという。泡の影、照明の反射、そう思おうとしても、橙は“関節”を持って動く。指のように曲がって、排水口の縁に触れ、縁をなぞる。

彼は慌てて水を抜いた。空になったシンクの底に、濡れた跡が残る。輪がいくつも重なり合った跡が、乾ききらないまま、指紋みたいに白く浮いた。

翌日、彼は会社に来なかった。連絡もない。机の上に、カードキーだけが置かれていた。濡れている。川の匂いがする。カードの表面には、薄い輪が一つ、きっちり刻まれていた。

その輪を見た瞬間、私は写真の右側にあった波紋の中心と同じ形だと分かった。偶然の一致じゃない。輪は“型”だった。水が何かを測るための型。足の数を数え直すための型。

夜、私はカップの水を一口飲もうとして、やめた。水面に、黒い楔が突き出ていたからだ。ほんの数ミリの尖り。目を凝らすと、そこから輪が生まれ、広がっていく。輪の外側が、台所の天井や壁を写すのをやめ、別の暗い場所を写し始める。

輪の中心から、橙が二本、ゆっくり上がってきた。脚ではない。指だ。水に濡れた指が、空気を探るように開き、閉じる。爪の先が、濡れたように光っている。

私はカップを叩き落とした。水が床に散っても、輪は消えない。床板の上に輪が立ち、輪の中心に冷たい気配だけが残った。

翌朝、彼がいなくなった水路へ行った。鴨が一羽だけ、左下と同じように浮いていた。何も知らない顔で、水面を滑っている。

私は護岸の上から、念のため足元を見た。乾いたコンクリートだ。輪などない。

なのに、私の靴の周りから、静かに輪が生まれた。水の輪郭だけが、コンクリートの上に立つ。

輪の中心で、何かが掴んだ。

足首ではなく、“足の数”を。

指が触れたのは靴底の影だった。影を掴まれた途端、私の足元の影が一つ増えた。二つ、三つ、四つ。増えた影はどれも、橙の指先を持っていた。水面の下から伸びてきたものが、私の足を“増やして”いく。

逃げようとしたが、足が何本になっても、どれも同じ輪の中心へ戻される。

私のスマホが勝手にシャッターを切った。

画面に写っていたのは、あの写真と同じ構図だった。左下に浮く鴨。右側に、尾を突き立てた何か。

違うのは、突き立っていたのが鴨の尾ではなく、私の靴の底だったことだ。

水面に向けて、私の足が逆さに立っていた。

そしてその横に、橙が二本。

私の足首を、確かに握っている指が二本。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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