都内の住宅地の公園に、二月初旬だけ雪が来た。
北国の降り方じゃない。白は薄く、翌日の夕方にはもう溶け始めていて、花壇の土がところどころ黒く戻っていた。
名前の分からない紫や白の花が、急な雪で荒れている。
花びらは水を含んで重く、折れた茎が泥に貼りつく。濡れたまま冷える匂いがして、春の花壇なのに、息を吸うと喉がひりついた。
縁石のそばに木杭が一本立っていて、黒いロープが巻かれている。
立ち入りを防ぐだけの簡単な区切り。いつもなら目に入っても気にしない。
でもその日は、結び目のあたりだけ妙に湿って見えた。濡れているというより、黒が“深い”。ロープの繊維が光るたび、髪の束みたいに細くうねって見えた。
風が、途切れ途切れに刺してきた。
吹くたびにロープがふるりと震える。風が止んだあとも震えが一拍遅れて収まる。布や紐の揺れ方じゃない。何かが内側から応答しているみたいだった。
遊具の近くには、小さな雪だるまがあった。
子どもが作ったものだろう。もう半分溶けて、首が沈み、顔の位置が低い。目にした小石だけが黒く残って、寂しいというより、置き去りの感じが強かった。
次の瞬間、風がぴたりと止んだ。
音が一枚、剥がれ落ちたみたいに周囲が静まる。
その無音の中で、きゅ、と小さな摩擦音がした。ロープの繊維が擦れる音。どこかで、濡れた手袋を絞るときの音にも似ていた。
木杭の結び目が、ほんの数ミリだけ締まった。
たるみが消え、輪が木肌に食い込む。結び目の位置が変わったわけじゃないのに、“締める力”だけが増したように見えた。
それを見た途端、花壇の雪の表面が薄く割れた。ぱき、ではなく、ぬる、と裂ける。薄い氷の皮が破れる感じ。
恐ろしくて目を離そうとした。
離せなかった。
倒れていた花が一本、風でもないのに揺れたからだ。起き上がるほどじゃない。ただ、茎がほんの少しだけ、こちらに向けて角度を変えた。
それだけで十分だった。花弁の泥の点が、顔の配置みたいに揃って見えた。
そのとき、手首に痛みが走った。
針で刺されたような、細い痛み。反射的に袖口を押さえる。何かに引っかけた覚えはない。
痛みは一瞬で引いたのに、代わりに“締めつけ”だけが残った。輪ゴムをきつく外した直後みたいな、じわじわした圧。
息を止めて、もう一度ロープを見る。
風がまた一息、刺すように吹く。
ロープは震える。止む。震える。止む。
止む瞬間ごとに、結び目の輪郭が少しずつ厚く見えた。増えたわけじゃないのに、輪が輪を重ねているように見える。黒い糸が、内側でこっそり束ね直されているように。
雪だるまが、ずるりと崩れた。
顔が前へ落ち、目の小石が二つ、転がる。
一つは花壇の外側で止まり、もう一つはロープの影の下で止まった。境界をまたぐ直前で、ぴたりと。
その止まり方が、誰かが“置いた”みたいに正確だった。
もう帰ろうと思った。
立ち去りながらも、背中に、結び目の視線みたいなものが張りついて離れない。
風が途切れて止むたび、きゅ、とあの摩擦音が追いかけてくる気がした。
家に戻ってコートを脱ぎ、手を洗ってから、ふと袖をまくった。
手首に、黒っぽい線がついていた。
一本の線じゃない。ロープの跡みたいな、ねじれた繊維の模様が、薄い輪になって残っている。擦った汚れでもインクでもなく、皮膚がうっすら沈んだような痕。
さっきの痛みの場所と、ぴたり一致していた。
冷やしても、風呂に入っても、跡は消えなかった。
翌日になっても残っている。色は薄いのに、輪の形だけが妙にくっきりしている。
外を歩いていて、あの“刺すような冷たい風”が途切れ途切れに吹いた瞬間、輪がじくりと痛んだ。締めつけが、ほんの少しだけ強くなる。
それ以来、冬の夕方に風が途切れるたび、手首が一拍遅れて痛む。
そして気づくと、輪の溝がわずかに深くなっている。
まるで向こう側で、黒いロープが少しずつ締め直されているみたいに。
公園の花壇は、もう雪なんて残っていないはずなのに。
あの木杭の結び目だけは、誰にも触られていないのに、いつも“固い”形を保っている。
写真で見返しても分かる。あの黒いロープは、ただ区切っているんじゃない。
どこからどこまでがこちら側なのかを、身体に覚えさせるために結ばれている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

