都内の昼過ぎだった。雪が積もるほど降るなんて滅多にないのに、その日は道路の端や生け垣の上に、白がきれいに残っていた。
寺院が集まる一帯を抜ける途中、「寺院通3番」というバス停の標識が見えた。下には時刻表のケースがぶら下がっていて、透明な板の内側にうっすら曇りが張りついている。ベンチの座面にも、粉砂糖みたいな雪が薄く載っていた。
そのすぐ横に、古いガラス張りの公衆電話ボックスが立っていた。屋根の縁と桟に雪が溜まり、ガラスは街路樹と寺の黒い門を、くっきり反射している。剪定された木の枝が、雪の塊を指先みたいに載せて、妙に人の手に見えた。
周囲に人はいない。車の音もしない。昼のはずなのに、境内の外縁だけ切り取られたみたいに静かだった。バスを待つ気にもならず、ただその場に立っていたら、唐突に「リン」と乾いた音がした。
公衆電話の着信音だった。
あり得ない、と思った。今どき公衆電話が鳴ること自体が珍しいし、まして誰もいない場所で、誰も触れていないのに。けれど音はもう一度、確かに鳴った。ガラス越しに見える受話器が、微かに震えた気がした。
反射に目が惑うのを嫌って、ボックスの中に入った。足元のゴムマットは濡れておらず、雪も吹き込んでいない。外の冷気が遮られて、息が少しだけ楽になった。
受話器を取ると、呼び出し音は止んだ。代わりに、回線の向こうから何かが落ちる音がした。硬貨が受け皿に落ちるような音が、三回。カチ、カチ、カチ。
直後、外が無音になった。
本当に、音が消えた。遠くの車も、誰かの足音も、風も。自分の血が耳の奥で脈打つ音だけが、妙に大きい。慌ててガラス越しに外を見ると、雪を載せた枝の影が揺れていない。生け垣の上の雪の粒まで、止まっているように見えた。
電話機を戻そうとしても、受話器がフックに収まらない。何かが引っかかっている。ゴムの柔らかさじゃない、冷たい、硬いものが、フックの内側に“触れている”感触があった。
ガラスが曇りはじめた。自分の息で曇るのは当たり前なのに、その曇り方が違った。内側から、ゆっくり白くなる。誰かが、こちら側に向けて吐息をかけているみたいに。
曇りの中に、指の跡が浮かび上がった。外側から押した跡ではない。内側から押しつけた跡だ。指先が長い。関節が多い。五本ではなく、増えたり減ったりして、ガラスを探るように移動していく。
反射していた枝が、突然“中”に入ってきた。
ガラスに映っていたはずの剪定枝が、ボックスの内側に影として伸び、天井の隅から床へ向かって這ってくる。黒い筋は枝の形のままなのに、動き方が生き物のそれだった。先端の雪の塊が、ぬるりと潰れて、濡れた皮膚みたいな光り方をした。
電話のコードが、きゅっと張った。誰かが受話器を引いている。自分の手元ではなく、回線の向こうから。
受話器のスピーカー穴に、黒いものが覗いた。穴の奥にあるはずの暗闇ではなく、濡れた粘膜みたいな黒。そこから、白い粒が一つ転げ落ちてきた。雪ではない。歯の欠片みたいに、硬い白。
思わず受話器を放り投げた。床にぶつかって、鈍い音がしたはずなのに、その音も吸い取られて聞こえなかった。代わりに、ガラスの向こうのベンチに“座っているもの”だけが、はっきり見えた。
人影の輪郭。雪を載せた肩。顔の位置だけが、異様に黒い。黒は影ではなく、穴だった。穴の奥で、何かがこちらを見上げた。
ボックスの引き戸の取っ手に手をかけた瞬間、指先が痛んだ。冷たい、ではない。熱いほどの冷え。皮膚の下に針を流し込まれるみたいな痛みだった。取っ手の金属に、内側から別の手が重なってきた。
爪が、ガラスを擦った。
ギィ、と音が戻った。音が戻ったのと同時に、外の世界も動き出した。遠くの車の走行音が流れ込み、風が枝先の雪を落とし、どこかの寺の鐘が一打だけ、遅れて鳴った。
ドアは開いていた。開いていたはずなのに、出た瞬間、背中に重い視線だけが貼りついた。振り返ると、公衆電話ボックスはいつもの無機質な箱に戻っていた。ガラスに曇りはない。中に人影もない。
ただ、床の隅に白い粒が三つ、揃って落ちていた。
その夜、スマホに着信が一件残っていた。知らない番号。発信者名の欄が、勝手に「寺院通3番」になっていた。消しても、翌日も、また翌日も、同じ表示で残った。
昼のはずなのに、あの場所だけが“内側”と繋がっている。そう思った瞬間、手のひらがじんと痛んだ。手のひらがじんと痛んだ。取っ手を握ったところに、指の形ではない、細い節の跡が薄く浮き出ていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


