都内の繁華街の高架下に、黄黒の橋脚がある。
安全色の黄色に、黒い帯。丸いリベットが肌の吹き出物みたいに並んでいて、その間という間にステッカーが貼り重ねられている。
誰が見ても、品がない。
路地の粘つきが、そのまま柱に転写されたみたいな、趣味の悪さの集積だ。
昼間はただの落書きの親戚で、視界の端に置いて通り過ぎれば済む。そう思っていた。
気づいたのは、名札だった。
「Hello my name is」と印刷された、ありふれた名札シール。よくあるやつだ。誰かの名前が雑に書かれていて、その上からまた何かが貼られている。
その名札だけが、いつ見ても新しい。
端がめくれない。汚れも裂けも、妙に避けている。
ある夜、雨上がりの高架下を歩いた。
緑の鉄骨の影が格子状に落ち、遠くに人影が一つ、コーンの脇を通り過ぎた。濡れた床が車のライトを薄く反射して、呼吸みたいに明滅していた。
橋脚の前で、足を止めた男がいた。
フードを被って、手袋もせずに、名札シールを一枚だけ取り出した。ペン先が紙を削る音がして、男の肩が小さく上下した。
それから、貼った。
貼った瞬間、音が変わった。
鉄がきしむ音じゃない。もっと近い、皮膚の奥が鳴るような音だった。
ステッカーの層が、ほんの一枚分だけ、膨らんだ気がした。リベットが湿って見えた。雨のせいだと思いたかったのに、柱からは雫が落ちない。
男は、そのまま歩き出した。
数歩で立ち止まり、口を開いた。誰かに電話をかけるように、名前を呼ぼうとしたのかもしれない。
でも、言葉が続かない。喉だけが空回りする。口の形は作れるのに、音が出てこない。
次の瞬間、男は首を振って、何事もなかったように去っていった。背中がやけに軽く、薄かった。
翌朝、橋脚を見た。
新しい名札は増えていなかった。
代わりに、白黒の四角いステッカーが一枚、目立つ位置に貼られていた。顔の輪郭みたいな濃淡だけが浮いている。顔なのに、誰の顔でもない。眼も鼻も、すべて途中で削られたみたいに途切れている。
それが、その男の“顔”だと、なぜか分かった。
昼過ぎから、橋脚の前に小さな人だかりができた。
「昨日ここで会ったはずなのに、誰だっけ」
「連絡先に名前がない」
「写真フォルダの人物タグが、空欄になってる」
皆、同じ話をしていた。自分の記憶の穴を、他人の記憶で埋めようとしている。けれど埋まらない。穴の縁だけが、じわじわと広がっていく。
その夜、高架下を避けて遠回りした。
なのに気づくと、足が橋脚の前に立っていた。行き先を間違えたわけじゃない。間違えたのは、足じゃない。
黄黒の柱のステッカーは、近くで見ると“層”ではなかった。
紙と糊の層のはずなのに、表面がうっすらと脈を打っている。細かな凹凸が呼吸している。リベットが、目のように見えた。
「壁だ」と頭が言うのに、体のどこかが「皮膚だ」と理解してしまう。
名札シールが、そこにあった。
「Hello my name is」
書かれている文字は読めない。インクは確かに乗っているのに、意味だけが抜け落ちている。指でなぞると、紙の感触がない。少し湿っていて、温かい。
貼りたくないのに、貼り方を知っている手つきで、指が動く。
剥がして捨てようとする力が、途中で消える。
代わりに、柱に“合わせる”動きだけが残る。
そのとき、背後を通った誰かの影が、ふっと軽く笑ったように見えた。
振り返っても、遠くに人影が一つあるだけだ。顔は見えない。見えるはずの距離でも、街灯の下で輪郭が溶けている。
橋脚のステッカーの隙間から、古い紙が覗いた。
そこには、何百枚もの「Hello my name is」が重なっていた。
どれも、名前の部分だけが空欄だ。
リベットが一つ、僅かに沈んだ。
沈んだのに、音はしない。代わりに、喉の奥がきゅっと締まった。
何かが、こちら側から“外れる”感覚がした。
次に息を吸ったとき、自分の名を思い浮かべようとして、空振りした。
忘れたのではない。
最初から、そこに無かったみたいに。
高架下を抜けると、街はいつも通り騒がしい。
だけど誰かが自分を呼ぶ声だけが、永遠に来ない。
人混みの中で、何度も肩を叩かれる。振り返るたび、相手の顔が困ったように歪む。
「すみません、えっと……」
その“えっと”の後に、入るはずだったもの。
それが今、黄黒の橋脚に貼られている。
剥がれない名札として。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。
(c)TRUNK-STUDIO – 画像素材 PIXTA –




