高架の下は、いつも同じ匂いがする。湿ったコンクリートと、油と、鉄の粉。人の流れに逆らうように一本だけ残る近道で、壁は毎日ちがう顔をしていた。ステッカーが増え、剥がれ、黒い線が重なり、上から塗りつぶされて、また誰かが何かを貼る。
壁の中央に、四角い注意板があった。赤い円と「警告」、英語の“WARNING”。その上から、別の言葉が雑に走っていて、いちばん目立つはずの“落書き禁止”も、肝心な部分だけが黒く汚れて読めない。下のほうには「警察署」の表記があるはずなのに、そこだけが妙に擦れて、わざと消したみたいに曖昧だった。
その周りの白い跡が、気になった。落書きを消しただけの塗装。ローラーで塗ったような平たい白。なのに、白の端だけが不自然に厚く、盛り上がっている。見られるとまずいものを、白で皮膜みたいに覆って隠したのではないか。そう思うと、白い斑点が“塗装”ではなく“包帯”に見えてきた。
次の日、通りがかりに見た白は、少し増えていた。昨日の白の縁から、にじむように広がっている。塗りたての匂いがしないのに、白だけが新しい。ステッカーの角が白に埋もれて、まるで壁が自分から飲み込んだみたいだった。
立ち止まって見ていると、頭上を電車が通った。振動が腹の奥に落ちてくる。その瞬間、白の表面が、ほんのわずか波打った。濡れた石に水滴が走るみたいに、光が歪む。白の中に、影が一つ、二つ、沈んだ。
目だ、と思った。白の斑点の中心が、ほんの少し窪んでいて、まばたきの前みたいに暗い。窪みの周りは、頬の丸みのように柔らかく盛り上がっている。落書き消しの跡だ、と自分に言い聞かせるほど、形は整っていった。左右に並ぶ窪みが、こっちを向く。
視線が合った、と感じた次の瞬間、背中が冷たくなった。怖いからではない。思い出せなくなる冷たさだった。自分の顔がどんな形だったか、頭の中の輪郭が薄れていく。鏡を見れば分かるはずなのに、“鏡を見る”という行為が、どうしても思いつかない。
慌ててスマホを取り出して、いつものように画面を見た。ロック解除の顔認証が失敗する。何度やっても、認証の枠が自分の顔を探して彷徨うだけで、最後には数字の入力画面に逃げる。カメラを自撮りにすると、画面の中の自分は、白いノイズをまとっていた。顔の中心が、誰かが乱暴に塗りつぶしたみたいに、白く滲んでいる。
その夜、友人に送ったはずのメッセージが返ってきた。「誰?」とだけ。冗談だと思って電話をかけても、留守電の声が自分の声だと確信できない。名前を言おうとすると、舌が空回りする。紙に書けばいいと思ってペンを取っても、苗字の一画目で手が止まる。書けないのではなく、“それが正しいのか”が分からない。
翌朝、どうしても確かめたくなって、また高架下へ行った。緑色の橋脚が錆びて、フェンスの先が針みたいに尖っている。注意板は昨日と同じ場所にあったが、黒い汚れが増えていた。いちばん消えてほしくない文字だけが、より丁寧に潰されている。
白い跡は、はっきりと“顔”になっていた。目の窪み、鼻の影、口の線。ただし、口は閉じている。声が出ないのではない。口という機能そのものが、塗り固められている。顔が複数、層になって重なっていた。古い白の下に古い顔、新しい白の下に新しい顔。どれもが、半分だけ見えて、半分だけ隠されている。
気づいたときには遅かった。目を逸らせない。見られるとまずいものを隠して塗ったんじゃない。見られるとまずい“人”を、塗って隠したんだ。目の窪みが、同時にこちらを向く。コンクリートの冷たさではない、人肌に近い湿り気が、白い斑点の表面からじわりと滲み出す。
白が伸びた。壁からではなく、影から伸びた。黒い落書きの線が、指みたいにほどけて、白の縁を撫でる。撫でられたところが、白くなる。白は“消し跡”ではなく、“塗りつぶし”そのものだった。名前を、顔を、記録を、存在の輪郭を。
咄嗟に後退して、手を壁についた。指先に、冷たくて柔らかい感触。粉っぽいはずの塗装が、皮膚みたいにしなる。手を引くと、指の腹に白い膜が薄く残っていた。拭っても落ちない。水で洗っても、膜は皮膚の奥に沈んでいくみたいに消えるだけだった。
その日から、レシートに印字される名前が毎回違った。会員証のバーコードは読めるのに、画面に出るのは空欄。防犯カメラに映る自分は、顔だけが白く飛んでいる。誰かが意図的に加工したみたいに、丁寧に。
数日後、もう一度だけ高架下を通った。意識して見ないように、壁を見ないように。けれど視界の端で、白い跡が増えているのが分かった。注意板のすぐ右、黒いスプレーの上に、新しい白がぽつりと咲いている。
その白は、横顔に似ていた。自分の横顔がどんな形だったのか、もう確信はない。それでも、似ていると分かった。似ていると“感じてしまった”瞬間、胸の奥がすうっと空になった。
落書き禁止、と書かれた板だけが、いつまでもそこにある。守られるべきものを告げる板が、いちばん上手に“塗りつぶし”を手伝っている。法律で罰せられるのは落書きで、塗りつぶされるのは人間のほうだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


