夜勤の管制室は、いつも同じ音しかしない。空調の低い唸り、蛍光灯の微かなジリつき、そしてモニターの無数の道路が流す、無音の流れ。
私の担当は湾岸寄りの高架区間だった。二本の高架が大きく弧を描き、その下を一本の車線がゆっくりと曲がっていく――防音壁に挟まれた、細い通路みたいなランプだ。日中は渋滞の逃げ道に使われることもあるが、深夜はほとんど車が来ない。
その夜、記録が先に鳴った。車両検知のログが一台、二台と立つのに、映像が空っぽだった。
「カメラの遅延か」
モニターには、夜明け前の青い空と、左右から迫る防音壁。路面は黒く、白線だけが冷たく浮いている。車も人もいないのに、検知だけが確かに“通過”を刻む。数値は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも映像のほうだ。
再生を巻き戻した。時刻は04:16。ランプの入口に、ヘッドライトの反射が一瞬だけ現れる。車体が画面に入る手前で、光がふっと薄くなり、次の瞬間には何事もなかったように空の道が続いていた。
音声はない。だが、画面の右側――高架の腹に塗られた緑の塗装が、剥げて黒い斑点になっている箇所が、妙に目についた。錆の剥離が、濡れた皮膚の鱗みたいに見える。気のせいだと分かっているのに、そこだけが“生々しい”。
二台目も同じだった。三台目は、消える直前にブレーキランプが一度だけ点いた。見えていないものに、止められたみたいに。
私はパトロール隊に連絡しようとして、やめた。説明ができない。カメラ不調と片づけられて終わる。だから、まず証拠を残そうと思った。静止画を切り出し、画質を上げ、拡大して――その瞬間、画面の白線が増えた。
路面中央、分離帯のように細い縁が一本、いつの間にか描かれている。もともと、あのランプにはそんな線はない。線は真っすぐではなく、縫い目のようにわずかに波打っていた。
そして、その縫い目に沿って、影が滑っていた。
影は“人の形”ではない。長い。薄い。防音壁の内側に張り付いた、黒い帯。帯は白線の上を撫でるように進み、カーブの奥へ消えると、代わりに防音壁の継ぎ目が一段、内側に寄った。
左右の壁が、呼吸みたいに近づく。
次のフレームで、道路の幅がほんの少しだけ狭くなる。分かるか分からないか程度。だが、私の目はそれを確かに拾ってしまった。視野の端で、壁が“こちらへ”来ていた。
それからは、ログが増えるほど、画面の道が“整って”いった。白線が綺麗になり、路面の傷が消え、ガードレールの歪みが真っすぐに直る。まるで、何かが道を縫い直している。
消えた車の数だけ。
管制システムは奇妙な挙動を見せた。検知ログに付くはずの車番が空白になる。通過時間だけが残り、車両の“属性”が抜け落ちる。運転手の携帯と紐づく緊急連絡も、届かない。存在していたはずの番号が、最初から登録されていないみたいに。
私は反射的に自分の手元を見た。名札の社員番号が、かすれて見える。インクの摩耗じゃない。文字の輪郭が、消しゴムで薄くこすられたように曖昧になっている。
モニターの中の防音壁が、また寄った。
壁の継ぎ目――パネルの重なりが、ぴたりと合わさって、一本の線になる。そこに、黒い帯が戻ってきた。今度は道の中心ではなく、画面のこちら側へ向かって滑ってくる。ゆっくり、確実に、カメラのある場所へ。
私は初めて、音を“感じた”。
耳ではなく、胸の奥で。低い摩擦音。古い鉄が、古い鉄に擦られるときの、気持ちの悪い温度。高架の腹の緑が、剥けた肉みたいに色を濃くする。
黒い帯がカメラの直下に来た瞬間、映像が一度だけ白く飛んだ。次の瞬間、ランプは完全に無車両のまま、何事もなかったように静止した。
ログだけが残った。
通過 04:29:03
通過 04:29:03
通過 04:29:03
同じ時刻が、三つ並んでいる。ありえない。なのに、システムはエラーを吐かない。それどころか、正常を示す緑のランプが、いつもより鮮やかに点灯している。
その緑が、高架の腹の剥げた緑と同じ色に見えた。
翌朝、私は切り出した静止画を印刷して持ち帰った。紙に残してしまえば、少なくとも“消えない”と思ったからだ。
自宅でライトの下に広げた写真には、あのランプが写っている。左右の防音壁、青い空、黒い路面。誰もいないはずの道路。そのはずなのに――
中央の縫い目が、紙の上でも波打っている。
縫い目の際に、黒い帯がある。帯はカーブの奥へ向かって伸びているのではない。こちらへ、写真の手前へ、伸びている。
そして、帯の先端だけが、ほんの少しだけ“形”を持っていた。指のように細く分かれ、紙の白い余白に触れている。触れた場所のインクが、わずかに滲んでいた。
私は写真を裏返した。
裏側にも、同じような滲みがあった。まるで、紙を貫いて縫い目が続いているみたいに。
そのとき気づいた。写真の中の防音壁の継ぎ目と、私の部屋の壁紙の継ぎ目が、同じ位置にあることに。
壁が、寄った。
部屋が狭くなったのではない。私が、“通路”に入ったのだ。左右から迫るものは、もう防音壁だけではなかった。
印刷した写真の中で、道路が静かに曲がり続けている。出口の見えないカーブの先へ。そこへ向かって、私の社員番号のかすれた名札が、じわりと薄くなっていく。
次にログが立つなら、きっと私の通過時刻だ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


