押ボタン式の誤差

写真怪談

この交差点は、晴れているほど変だと思う。
青空が硬すぎて、音が反射して戻ってくる。電線は三本とも同じたわみで、風がなくても揺れている。歩道の緑の柵は、波形の連なりがやけに整いすぎていて、目が滑る。

工事現場の銀色のフェンスが、光を薄く歪めていた。板がずらりと並び、ところどころ半透明のパネルが挟まっている。向こう側でクレーンが腕を伸ばし、吊り具の先のフックが空中で静かに止まっている。止まっているのに、落ちてくる感じだけが残る。

信号は押ボタン式だ。青になるまで待つ理由を、機械に許可してもらうみたいで好きじゃなかった。けれどこの道は迂回ができない。毎朝、指で押して、赤い人形が消えるのを待つ。

最初に気づいたのは、赤の人形の姿勢だった。
歩行者の「止まれ」の人が、ほんの少しだけ斜めに傾く。画面のドットの欠けだと思った。けれど翌日も、その翌日も、傾きは同じ角度だった。まるで片足だけ浮いているみたいに。

信号柱の脇には、枝を落とされ尽くした木が立っている。太い幹に、切断面だけがいくつも残り、腕を失った人のようだ。そこに電線が巻き付いていて、幹が電線を抱きしめているのか、電線が幹を縛っているのか、どちらとも言い切れない。

ある朝、押しボタンを押した瞬間、指先が妙に温かった。
金属に触った温度ではなく、体温のような戻り方。押し返す力も柔らかい。ボタンの中に、薄い肉が詰まっている錯覚がした。

同時に、工事現場から「カン」と乾いた音が返ってきた。金属同士の衝突音ではない。もっと近い、頭蓋の内側で鳴る音だ。私は反射的にフェンスの半透明パネルを見た。

向こう側に、誰かが立っていた。
作業員の蛍光色ではない。黒い輪郭だけが、薄いパネルの向こうで揺れている。背中がこちらを向いていて、首のあたりだけがやけに長い。風がないのに輪郭が伸び縮みした。

信号の赤い人形が、さらに傾いた。
傾きが、ぶら下がる形になった。肩が引っ張られるように上へ、足が軽く下へ。歩行者ではなく、吊られている人のシルエットに見えた。私は目を逸らし、青になるまでの数字を数えようとしたが、この信号にはカウントが出ない。

青になった。私は渡り始めた。
横断歩道の白線が、いつもより一本少ない気がした。気のせいだと思った。だけど足を置くたび、白が背後で消えていく感触がある。自分が踏んだ分だけ、線が沈む。アスファルトに吸い込まれるように。

中ほどまで来たところで、頭上の電線が、わずかに鳴った。
弦を爪で弾いたような「ン」という音。次の瞬間、影が引かれた。足元の自分の影が、後ろに伸びるのではなく、上へ細く引き上げられる。まるで見えない釣り糸で吊られていくみたいに。

私は立ち止まり、顔を上げた。
電線のたわみが、首の曲線に見えた。三本が三本とも、同じ場所で同じ角度で曲がり、そこだけが喉仏のように太い。電線の影が絡み合い、輪を作っている。その輪の中心に、空がひとつだけ濃く見えた。

そこから、細いものが垂れていた。
クレーンのフックのワイヤーではない。もっと細く、毛髪ほどで、しかし重さだけが確かな線。線の先は見えないのに、私の影の肩口に確かに刺さっていた。刺さったところから、影がじわりと黒く滲み、私の体と影の境目が曖昧になっていく。

工事現場のクレーンが、動いた。
ゆっくりと腕を振り、フックが空を切る。フックが切ったのは空じゃない。私の影だ。フックの先が私の影の首のあたりに重なった瞬間、影が「引っかかった」感じがした。金属が布に食い込むような、鈍い確信。

耳元で、押しボタンの戻り音がした。
さっき押したはずのボタンが、もう一度押され、戻る。私は両手を見た。手はぶら下がっている。押していない。なのに、信号柱のあたりから「カチ」と確かに鳴る。押したのは誰だ。

フェンスの半透明パネルの向こうの影が、振り返った。
顔がない。あるのは、首の付け根だけだ。首が異様に長く、上の方で途切れている。途切れた先が、こちらの空へ伸びていく。伸びた先が、電線のたわみと同じ形をしていた。

私は理解した。ここでは、押すことが「渡る許可」じゃない。
押すことが「吊る許可」なのだ。

横断歩道の終わりが近づくほど、身体が軽くなる。軽くなるのに、足が動かない。地面ではなく、影が引かれているせいだ。影を引かれると、本体は置き去りにされる。置き去りの肉が、後から影に追いつこうとして、裂ける。

最後の一歩を踏み出した瞬間、私は確かに見た。
銀色のフェンスの板が、一枚だけ内側に凹んでいる。その凹みが、人ひとり分の形をしている。肩、腰、膝の位置まで、ぴったり私の輪郭に合っている。誰かが、そこに押し付けられて、平らにされたみたいだった。

渡り切ったはずなのに、信号はまだ赤だった。
赤い人形がぶら下がった形のまま、こちらを向いている。私は振り返って交差点を見た。横断歩道の白線が、やはり一本足りない。足りない分の白が、フェンスの凹みに吸い込まれているように見えた。

翌朝、私はまたこの交差点に立っていた。
何事もなかったように青空で、電線は同じたわみで、工事現場のクレーンは同じ位置で止まっている。信号柱の「押ボタン式」の札も同じだ。

ただ、枝を落とされた木に、切り口がひとつ増えていた。
昨日までなかった高さに、丸い断面が白く光っている。まるで、新しい腕を切り落としたみたいに。

私はボタンに手を伸ばした。
触れていないのに、ボタンが先に温かくなった。信号の赤い人形が、微笑むように、ほんのわずかに揺れた。揺れたのは人形ではない。電線のたわみだった。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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