都内の西のはずれにある住宅地は、少し歩けば畑が覗く。新しい外壁と古い塀が混じり、電線だけが過剰に空を占領している。晴れているのに、頭上はいつも薄い網の目みたいで、鳥の影さえ絡まって落ちてきそうだった。
その日、午後三時。新聞の荷箱を積んだバイクが交差点を曲がっていった。エンジン音が住宅の壁に反射して、細い道に何重にも戻ってくる。
道の奥、右手の白い壁の前に、人が立っていた。
立っているというより、置かれていると言ったほうが近い。背筋がまっすぐで、足元が影の中に溶けている。こちらから距離はあるのに、視線だけがはっきり刺さってくる。手を振るでもなく、スマホを見るでもなく、ただそこにいる。
バイクは角を曲がりきれず、いったん減速してから、妙に大きく回り直した。細い道なのに、何度も同じ軌道をなぞる。交差点に白いラインが引かれているだけで、信号もない。なのに、そこだけ通れない場所みたいに、タイヤが縁を嫌っているように見えた。
その瞬間、頭上の電線が一斉に震えた。
風はない。木も揺れていない。揺れたのは電線だけで、細い線が生き物みたいに、たわんで、戻って、またたわんだ。絡まった黒い束が、ゆっくりと道の奥へ流れる。見ているうちに、それが“電線の束”じゃなく、腕を何本も束ねたものに見えた。
カーブミラーが、ぎらりと光った。
反射しているのは、さっき曲がったはずのバイクだった。いや、もう一台いる。荷箱の角度まで同じ。運転者の背中の丸みも同じ。まるで同じ映像を貼り付けたみたいに、ミラーの中に“同じ配達”が二回映っている。
道の奥の人影が、ほんの少しだけ首を傾けた。
その動きが合図だったみたいに、電線の震えがピタリと止まった。代わりに、交差点の白線が、濡れた筆で引き直したみたいに黒く見えた。白いはずの線の内部だけ、影が濃く沈む。そこへバイクの前輪が触れた瞬間、音が消えた。
エンジン音が消えたのではない。周囲の生活音が消えた。遠くの犬、空調の室外機、葉擦れ、どれも一斉に“無音の膜”に包まれる。聞こえるのは、電線の上を滑るものの気配だけ。金属に爪を立てて引きずるような、細い、乾いた音。
配達の男は、ハンドルを切ったまま固まった。
背中が震えている。ヘルメットの縁から、汗が一筋落ちたのが見えた。だが彼は拭かない。拭けない。バイクの影だけが、彼の意思とは別に、交差点の黒い白線へ伸びていく。
影が“吸われた”。
影は地面から剥がれて、薄い布みたいに持ち上がった。上へ。電線へ。絡まった黒い束へ。影が吸い上げられると同時に、配達の男の体が、ほんの少し軽くなったように見えた。人間が空気になる手前の、妙な薄さ。存在の輪郭が、日差しに負けて透ける。
道の奥の人影は、まだ動かない。
ただ、そこにいるだけで、交差点を境界に変えていた。こちら側は午後三時。向こう側は――何時なのかわからない。カーブミラーの中の二回目のバイクが、同じ場所を永久に曲がり続けている。配達の男が顔を上げた瞬間、ヘルメットのバイザーに、電線の“束”が映った。
束は、人の形だった。
腕の数だけが異様に多い。首から上は、電線の黒に紛れて見えない。ぶら下がった腕の先が、街の影を一本ずつ引き抜いている。影を抜かれた家は、昼なのに内部が暗く、窓が“空洞”みたいに見えた。
配達の男は、交差点から引き返そうとした。
だが後輪が動かない。路面に吸い付いたみたいに、タイヤが回らない。代わりに、バイクの荷箱のふたが、カタ…カタ…と小さく鳴り始めた。中に新聞が入っているはずなのに、紙の音じゃない。硬いものが擦れる、歯の音みたいな乾いた鳴り方。
道の奥の人影が、ようやく一歩だけ踏み出した。
踏み出した先に影はなかった。影を“置き忘れた”人間みたいに、足元が空白だ。そのまま交差点へ向かって歩く。歩くたびに、影のない足が地面に触れ、白線の黒さが増していく。
配達の男が、反射的にこちらを振り返った。
助けを求める顔は見えない。バイザーの奥は暗く、黒い。けれど、確かに“視線”だけはある。次の瞬間、彼の背中から、もう一つ影が剥がれた。今度は彼自身の影ではない。彼の中に残っていた“重さ”が影の形になって、電線へ吸われていった。
人影が交差点に立つと、無音の膜がぱん、と破れた。
一斉に音が戻る。犬が吠え、どこかでドアが閉まり、遠くの車が走る。何事もなかったかのように、世界が再開する。そのときにはもう、配達の男はいなかった。バイクもない。交差点の白線は元の白に戻り、カーブミラーも、ただの空を映していた。
残ったのは、ひとつだけ。
交差点の手前の路面に、靴底の跡が二つ。片方は普通の人の足跡。もう片方は、足跡の“縁”だけが押されて、中心が空洞になっている。まるで、影だけが踏んでいったみたいな跡だった。
その後、近所では時々、午後三時に新聞が届くようになったという。
誰も頼んでいない新聞が、門扉に差し込まれている。紙面は真っ白で、指先が妙に黒くなる。インクではない。触れるたび、薄い煤が付く。それを払おうとしても落ちず、いつの間にか爪の間に入り込む。
煤が溜まった爪で、ふと頭上の電線を見上げるといい。
晴れた青空の下で、電線の束が、ゆっくりと“腕”の形にほどけていくのが見えることがある。
そして、交差点の奥の白い壁の前には、影を置き忘れた人が、今日も静かに立っている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


