塩の数字

晩酌怪談

正月の帰省から都内へ戻った翌日、いつもの居酒屋へ寄った。
馴染みのカウンター、木目の艶、いつもと同じ匂い。気になることなんて何もないはずだった。

瓶ビールを一本。
串は塩で、モモ、レバー、ハツ。ガツはもう食べ終えている。
揚げナスには薬味とかつお節。箸を置く場所も、手が覚えている。

湯気の立つ揚げナスをひと口食べて、眼鏡を外し、いつもの癖で右手のそばへ置いた。
そこから先だけ、店の「いつも」が、ほんの一枚ずつ剥がれていった。

まず、塩の粒だ。
串に振られた粗塩が、妙に目立つ。照明のせいじゃない。粒が、規則正しく並んで見える。
見える、というより「読める」。
塩が数字の形に寄っていた。丸、縦線、もう一度丸。

……0101。

咄嗟に「新年だからだ」と思い直した。
縁起を担ぐ店でもないのに、と笑いながらグラスを持ち上げた瞬間、グラスの向こう側の景色がずれた。

ピントが合っていないのに、はっきり見えるものがある。
自分の眼鏡が、そこにある。現実と同じ位置に。
ただし、レンズの内側に“誰かの指紋”がべったり付いている。自分のものじゃない指の跡だ。

眼鏡を拭いた覚えはない。
いや、それ以前に、指紋の“向き”がおかしかった。

レンズの内側に、外側から押しつけた跡。
誰かが、レンズの向こう側――つまり、眼鏡を置いたはずの木目の“下”から、押し上げたみたいな。

喉が乾いた。
ビールを飲んだのに、余計に乾いた。

目を逸らそうとして、ふと気づく。
本来、そこにあるはずのない串が、グラス越しには映っていた。

ガツだ。
もう食べ終えて、皿には残っていないはずのガツ串が、塩をまとって、しっかりと。
しかも肉は、噛み跡がある。食べ終えた“続き”の形で残っている。

現実の皿には無い。
グラスの向こうの皿には、ある。
“無い”と“ある”が、同じカウンターの上で重なっていた。

背中の方で、笑い声が一瞬だけ止まった。
止まったというより、音が「吸い込まれた」。
その吸い込みが、眼鏡のほうへ集まっていく感じがした。

反射に目をやる。
眼鏡のレンズに、天井灯が二つ映っている。

この店の照明は一列に一つだけだ。
二つ映るのはおかしい。角度を変えても、二つのまま。

レンズの二つ目の灯りは、揺れていた。
揺れ方が、灯りじゃない。
呼吸の揺れだ。

眼鏡のレンズの中に、“座っている誰か”の気配がある。
カウンターのこちら側でも、向こう側でもなく、レンズの向こう側――木目の下に。

思わず眼鏡に手を伸ばした。
指が触れる直前、塩の粒が、ぱらりと音もなく落ちた。

落ちた塩が、木目に吸い込まれた。
木が塩を吸うなんて、ありえない。
でも確かに消えた。落ちた粒だけ、跡形もなく。

代わりに、木目の中で何かが浮いた。
白い筋。輪郭だけの指の形。
そこから、ゆっくりと“爪”が生えてくるように盛り上がっていく。

やめろ、と声が出なかった。
出ないのに、喉だけが震える。

レンズの中で、二つ目の灯りが近づいた。
息が、ガラス越しに曇りを作る。
曇りが文字になる。水滴の線が、丁寧に書くみたいに。

「まだ」

まだ。
何が、まだ。

その瞬間、店の空気が一段冷えた。
揚げナスの湯気が細くなって、煙みたいに真上へ伸びる。
串の塩が、また数字を作り始めた。

0101の次は、0102。
昨日の続きみたいに。
帰省から戻った翌日、という“自分の時間”が、勝手に上書きされていく。

レンズの向こう側から、指が出てきた。
木目を割らずに、レンズの内側へ。
ありえないのに、指先がレンズの縁をなぞって、こちらへ触れようとする。

眼鏡は、私のものだったはずだ。
けれどその指は、“眼鏡を通してしか見えない側”から伸びてくる。

咄嗟に眼鏡を掴んで持ち上げた。
軽い。いつも通りの重さ。
なのに、レンズの内側にだけ、確かな温度が残っていた。人肌より少し冷たい、濡れた温度。

店員さんがカウンター越しに声をかけた。
「……お客さん、今年は、早いっすね」

今年は。
何を基準に“早い”と言った?

返事ができず、私は眼鏡をかけた。
視界が、ぴたりと合う。
合った瞬間、合ってはいけないものまで合った。

カウンターの木目の下に、もう一つのカウンターがある。
そこに、同じ瓶、同じグラス、同じ串。
そして、私の向かいに“私”が座っていた。

向かいの私は、眼鏡を外して置いたばかりの仕草で、こちらを見ている。
その目は、レンズ越しにしか見えないはずの場所に焦点が合っていた。

向かいの私が、口を動かした。
言葉は聞こえない。ただ、唇が形を作る。
「まだ、戻るな」

次に瞬きをした時、向かいの席は空だった。
空なのに、椅子の座面がじっとり濡れている。
まるで、誰かがついさっきまで座っていたみたいに。

会計を済ませて店を出るまで、私は一度も後ろを振り向けなかった。
振り向いたら、また“向かいの私”が、いつもの席で待っている気がしたから。

帰宅して、ふとスマホの写真フォルダを開いた。
何気なく撮った、あの夜のカウンターの写真が残っている。

瓶ビール、グラス、塩の串、揚げナス、箸、眼鏡。
全部、写っていた。

ただ一つだけ違う。
食べ終えたはずのガツ串が、皿の上に戻っている。
噛み跡のある途中の形で。

そして眼鏡のレンズに、指紋がべったり付いていた。
内側から押し上げた跡で。

翌日、眼鏡を洗っても、指紋は落ちなかった。
落ちないのに、増えていく。
塩の粒みたいに、少しずつ。
0101、0102……と、年を数えるように。

私は、今年が何年なのかを、もう正確に言えない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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