硝子の行列

写真怪談

北の街に着いたのは、日がまだ高いころだった。駅前は除雪された雪が両側に寄せられ、踏み固められた白が、石みたいな硬さで光っている。

ガラス張りの建物の前に、雪で作られたペンギンが四体並んでいた。大きいのが三つ、小さいのがひとつ。くちばしの丸みや腹のふくらみまで、妙に丁寧だ。写真を撮る人がいて、通りすぎる人は笑っている。冬の街の、よくある景色のはずだった。

足を止めた瞬間、聞こえた。
屋外放送の、少し割れた声。

内容は途切れ途切れで、意味だけが残る。動物の名前。注意事項。誘導の言葉。
なのに私は、その“続き”を知っている気がした。

幼いころ、家族に連れられて行った動物園。雪の上を歩くペンギンの列。人だかりの、あたたかい息。売店の甘い飲み物。手袋の中で、汗ばんだ指先。
あの場面が、駅前の空気に重なってくる。

ガラスには街が映っている。行き交う人のコート、バスの赤い線、濡れた道路の黒。
けれど、映り込みの中にだけ、別の景色が混じる瞬間があった。

人波の隙間に、古い形の帽子がすっと入り込む。
見覚えのある制服が、さっと横切る。
看板の色が、今よりくすんで見える。

一番おかしかったのは、私の反射だった。
私はガラスの前で立ち止まっている。反射の私は、立ち止まるのがほんの少し遅い。呼吸の白さが、遅れて浮く。瞬きのあと、まぶたが閉じきる前に、向こうだけが先に開く。

気のせいだ、と言い聞かせようとした。
だが、雪のペンギンが並ぶ方向が、いやに揃いすぎている。道に向かってではなく、ガラスに向かって立っている。まるで、映り込みのほうを見物しているみたいに。

私はスマホを取り出して、写真を一枚撮った。
画面の中で、雪像はきれいに並んでいる。背景のガラスも、空も、違和感はない。
ただ、撮った直後に表示される小さなプレビューで、いちばん小さいペンギンだけが、雪の粒ではなく濡れた羽毛みたいに見えた。

すぐに見直すと、戻っていた。
雪の質感に、ちゃんと戻っている。

目が疲れているのだろう、と私は自分のせいにした。仕事の移動続きで、睡眠も浅い。
そう思いながらも、視線は勝手にガラスへ戻る。

映り込みの中に、子どもがいた。
背丈。コートの丈。立ち方。
自分でも嫌になるくらい、私はその子が“誰か”ではないと分かった。

あれは、私だ。幼いころの私だ。

子どもの私は、ガラスのこちら側にいるはずなのに、向こう側にいる。
その隣に、大人の手がある。黒い手袋。袖口に雪が点々と付いている。
記憶の中で、そんな手袋をした大人に手を引かれた覚えはない。けれど、向こう側の私は、その手を疑いなく握っている。

私は一歩引いた。
引けた。足は動く。だからこそ、余計に怖い。
襲ってくる気配はないのに、ガラスの向こうが、私の記憶のほうへ視線を合わせてくる。
「ほら、ここだろう」と言わんばかりに、ほんのわずかなずれを、指先で摘まんで見せつけてくる。

それから先は、ちゃんと見ようとすればするほど、輪郭が崩れた。
子どもの私の顔が、雪の照り返しで白飛びする。黒い手袋の指が、ガラスの反射と重なって、形が分からなくなる。
私は自分の中で、勝手に結論を作りかけている。
「昔、あの動物園で迷子になったのではないか」
「知らない大人に連れられそうになったのではないか」
そんな筋道を、今の私が後付けしようとしている。

でも、違う。
ガラスの向こうは、筋道を求めていない。
ただ“思い出す前の形”を、そのまま私に見せているだけだ。

その夜、宿で荷物をほどくと、コートの内ポケットから紙片が出てきた。
薄くて、湿っていて、指に貼りつく。

半券のように見える。入場の文字だけが、かすれたインクで残っている。日付も、施設名もない。
なのに、手に取った瞬間、魚の匂いがした。濡れた柵の匂い。消毒液の匂い。人の吐く息の匂い。
嗅いだ覚えがある。遠い冬の匂いだ。

私は紙片を捨てようとした。
だが、ゴミ箱に落ちる直前、紙片の裏に、鉛筆の筆圧が浮いているのが見えた。誰かの筆跡で、短い線が何本も引かれている。
文字ではない。数でもない。
ただ、何かを数えるための“しるし”みたいな線だ。

翌朝、スマホが勝手に表示した通知があった。
「思い出」
そんな類の機能が、昔の写真をまとめて見せてくるやつだ。

そこに、昨夜撮ったはずの駅前の雪像の写真が混じっていた。
幼いころの動物園の写真の列の中に、駅前の雪のペンギンが、何事もなかったように挟まっている。

私は指が冷たくなるのを感じながら、その写真を開いた。
駅前の景色は同じだ。ガラスも、雪の壁も、並ぶ四体も、見覚えのある通り。
ただ、ガラスの映り込みの中だけが違う。

そこには、雪の上を歩く小さな列が映っていた。
ペンギンの列だ。
よちよちと、でも迷いなく進む列。
そして、列の端で、黒い手袋をした誰かが、子どもの私の手を握っている。

写真の外側、画面のこちら側にいる私は、何もされていない。
ただ、見ているだけだ。
なのに、胸の奥が静かに締まっていく。

あの冬の日の続きを、私は知らない。
知っているのは、匂いと、白さと、黒い手袋の感触だけ。
いまさら思い出したところで、何が変わるわけでもない。

それでも、駅前の雪像を見るたび、思ってしまう。
雪が溶けて形が崩れても、また誰かが作り直す。
同じ場所に、同じ並びで、同じ向きに。

もし、あれが“作り直し”ではなく、私の記憶の穴を埋めるための“やり直し”だとしたら。
雪像の前で立ち止まった私が、いつか自分の意思で、ガラスの向こうの列に加わってしまう日が来るのかもしれない。

私は今日も、足を止めない。
足を止めないまま、横目で四体を数える。
四体であることを確かめるように。
増えていないことを祈るように。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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