雪国の午後は、音が薄い。降っているはずの雪の気配さえ、白い膜の向こうで鳴っているみたいに遠い。空は重く、鉛色で、たまに雲の継ぎ目が明るむだけ。そんな日だった。
道の端に積もった雪を脇へ寄せ、息を整えるために顔を上げた瞬間、雲がわずかに裂けた。裂け目の底に、丸い白がにじんでいる。太陽だ。雪が舞っているのに、そこだけ淡く光って、空の底が抜けたみたいに見えた。
そのとき、雪が変な落ち方をした。舞うというより、黒い点が無数に“落ちてくる”。目の前の空に、細かな煤を撒いたみたいに、点々が増えていく。雪だと頭ではわかっているのに、目が勝手に「虫」だと読み替えようとする。細かい黒い点が、空からこちらを見ているような錯覚。
ほんの数分の出来事だった。雲が閉じて、光はまた消え、いつもの灰色に戻る。なのに、戻ってこなかったものがある。時間だ。
手袋の上からスマホを触り、時刻を見た。12:47。腕時計も同じ。雪の中でよくある、単なる気の迷いだと思った。ところが、次の作業に移って、また息を吐いて、ふと時計を見ると――12:47のままだった。
バグか、止まったのか。そう思って振ると、秒針は動いている。数字だけが、同じ場所に刺さったまま。周囲の世界は確かに進んでいる。雪は積もり、息は白く、足の冷えは深くなる。それなのに、「午後の針」だけが進まない。自分の中のどこかが、同じ数分を踏み続けている。
その違和感は、空の裂け目の記憶と一緒に蘇った。あの光は、太陽じゃなかったのではないか。雲の切れ間の白は、球じゃなくて――瞳だ。こちらの顔を覗き込む、白い目。眩しさではなく、露出の合いすぎた白さ。見られていると気づいた瞬間、全身から汗が引いた。
それでも、人は慣れてしまう。数日もすれば、同じ現象は「雪の日の変な癖」として日常に埋もれた。ほんの数分だけ雲が裂け、白が滲み、その直後に“時間が噛む”。誰も大騒ぎしない。むしろ、町の古い人間は、何かを知っている顔をする。
ある晩、雪かきを手伝った家の縁側で、年配の人がぽつりと教えた。
「昼穴(ひるあな)を見たか」
その言い方が、あまりにも当たり前で、背中が冷えた。
「雲が裂けて、昼の底が見える。あれは太陽じゃない。昼そのものの穴だ。穴が開いたとき、落ちてくるものがある。……時間の削りカスだ」
雪の舞い方が黒い点に見えたのは、そのせいだという。穴からこぼれた“削りカス”が、雪に混じって降ってくる。あれに触れた目は、ほんの少しだけ“削られる”。削られた分の時間は、穴の向こうへ落ちていく。落ちた時間は戻らない。ただ、同じ数分が足元に残って、踏むたびに軋む。
「じゃあ、見なきゃいいんですか」
そう訊くと、年配の人は首を横に振った。
「見ないで済むならな。だけど昼穴は、こっちを見る。目を逸らした人間の方へ、裂け目が寄ってくるんだ」
その言葉を笑い飛ばせたのは、その夜までだった。
次の雪の日。昼過ぎ。空はまた鉛色で、町は白に埋もれ、誰もが黙々と動いていた。私は意識して上を見ないようにしていた。ところが、ふと、地面の雪面に“丸い明るみ”が落ちた。影ではなく、光の落とし物。見上げなくても、裂け目はそこにあるとわかった。
視線は、勝手に引っ張られる。抵抗しても、首の関節が“合う”方向へ、じわりと回る。雲が裂け、白が滲んでいる。あの白が、私の方へほんの少し傾いた気がした。
眩しさではない。白い目が、焦点を合わせるようにこちらへ寄ってくる。穴の縁が、ぬるりと動く。雲の裂け目は雲の動きではなく、皮膚の裂け目みたいに“開閉”していた。そこから、雪が落ちてくる。黒い点の雪が、まっすぐに。
その黒い点が一つ、私のまつ毛に触れた。溶けるはずなのに、溶けない。冷たさが皮膚ではなく、眼球の裏側に沁み込んでくる。瞬きした瞬間、視界がほんの少しだけ“後ろ”にずれた。
そこに見えたのは、今の空ではなかった。雪雲の奥――白い穴の向こう側に、別の風景が透けていた。夕方の色のない町。人のいない道。雪の上に並ぶ、濡れた足跡。足跡の先で、何かが立っている。背丈は人と同じ。でも輪郭が、雪の粒でできているみたいにふわふわで、顔の場所だけが白い穴だった。
その“立っているもの”が、こちらへ片手を伸ばした。指は細い雪の筋で、触れた先から私の視界が削れていく。自分の生活の一部――今日の午後、帰宅して飲むはずだった湯気の匂い、靴を脱ぐ感覚、誰かと交わすはずだった短い会話――そういう、些細で確かな未来が、削り取られていく。
気づけば、私は膝をついていた。雪の上に落ちた自分の影が、普通より長い。なのに太陽は出ていない。影の先に、黒い点が集まっていく。雪が、影の形をなぞりながら、増殖していく。影の上に“もう一つの影”が重なり、それがゆっくりと立ち上がる。
立ち上がった影は、私と同じ姿だった。顔の部分だけ、白い。昼穴の白だ。
影の私が一歩踏み出すたびに、現実の時計の数字がひとつ戻る。12:47。12:47。12:47。
数分が、無限に擦り切れる音がした。軋みが、骨の内側から鳴る。
そのとき、年配の人の言葉を思い出した。
「落ちた時間は戻らない」
私は、視線だけでなく、まぶたそのものを閉じた。雪の粒が目に当たっても構わず、頭を抱えて、耳の穴を塞いだ。世界が暗くなる。暗闇の中で、白いものだけが見える気がした。瞼の裏に、丸い白が残像みたいに貼り付いて、ゆっくりと瞬きをする。
そして、暗闇の向こうで、何かが“数える”気配がした。言葉でも音でもない。雪が舞う数、息が白くなる回数、心臓が打つ回数――そういうものを、まとめて数えて、帳尻を合わせるために削る手つき。
次に目を開けたとき、空は灰色に戻っていた。裂け目は閉じている。雪は普通に舞っている。黒い点ではない。町も、いつもの雪の町だ。
けれど、帰宅して気づいた。靴を脱ぐ感覚が、なかった。湯を沸かしたはずなのに、湯気の匂いがしない。今日誰と何を話したのか、思い出せない。スマホの通話履歴も、メッセージも、ぽっかりと空白がある。削り取られた“午後”が、確かにあった。
その夜、窓の外を見た。雪雲の下、どこにも太陽はない。なのに、雪の向こうに、ほんの少しだけ白い滲みがある。雲の切れ目ではない場所に。まるで、こちらを覗くために、雲の内側から目を押し当てているみたいに。
昼穴は、昼だけに開くものじゃない。
開いた分だけ、こちらの時間が軽くなる。
軽くなった時間は、雪と一緒に舞って、いつか私の影を形づくる。
次にあの白を見たら、私はきっと、自分の影に立ち上がられる。
そしてその影は、穴の向こうへ“ちょうど良い分だけ”私を運んでいくのだと思う。
雪が、黒い点に見えた、あの数分間の続きへ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


