その滑り台は、冬になると“使えなくなる”のが当たり前だった。赤い手すり、黄色い側板、緑の支柱。色だけが子どもの季節に取り残され、夜になると雪がすべてを白く塗りつぶす。近くの集合住宅の窓がいくつか灯っているのに、広場の中央は深い底みたいに暗かった。
夜勤帰り、遠回りしてその前を通るのが癖になった。理由はない。ただ、あそこを見ていると、呼吸が整う気がした。雪が吸い込む音のない世界で、金属の遊具だけが“そこにある”のが救いだった。
その晩は妙に明るかった。雲が薄いのか、月がどこかにあるのか、空には青黒い筋が幾重にも伸びていた。目を凝らすと、それは雲の切れ目ではなく、何かに撫でられた跡みたいに見えた。空の皮膚に爪を立てて、引きずったような筋。
滑り台の斜面は、雪でふっくらと盛り上がっているはずだった。なのに、一本だけ、細い線が走っていた。
頂上から地面まで、まっすぐに。
誰かが滑った――そう思うのが自然なのに、そう思った瞬間、背中の奥が冷えた。滑るには雪が深すぎる。そもそも、登るための階段も踏み固められていない。足跡ひとつない雪の中に、滑走の線だけがある。
風が吹いた。木の枝が擦れ、どこかの建物の排気が白く流れた。滑り台の線は消えなかった。むしろ、線の両脇だけがわずかに沈んで、まるで“中身”が抜けたみたいに見えた。雪の下に、細長い空洞ができている。
見てはいけないと分かっていたのに、足が勝手に進んだ。雪を踏む音が遅れて耳に届く。自分の影が足元に落ちるはずなのに、暗さが吸い取って、影だけがどこかへ行ってしまう。
滑り台の脇に立つと、線の始まりが見えた。頂上の踊り場の手すりの内側、ちょうど子どもが身を乗り出す位置に、薄く指の跡が浮いていた。雪の表面が、指の腹で押されたみたいに丸く窪んでいる。五つ。大きさが不揃いで、爪の輪郭がない。
私は無意識に手袋を外して、その窪みに触れた。
雪は冷たいはずだった。
なのに、触れた瞬間だけ、ぬるかった。生温い。湯気の出ない体温が、雪の下から滲んでいる。
息が止まった。
次の瞬間、滑り台の線の中で、“何か”が動いた。
雪を割るでもなく、表面を崩すでもなく、線の中の空洞だけが、するり、と下へ移動した。視界の端で、白い斜面が一瞬だけ沈み、そして戻る。まるで、透明な袋に入ったものが滑り降りたみたいに。
音はしない。ただ、私の鼓膜の内側にだけ、擦れる感覚が残った。金属と布がこすれる、あの乾いた感覚。ありもしない音の記憶が、勝手に再生された。
線の終点――地面の雪だまりが、わずかに持ち上がった。
雪が、内側から押されて、丸く膨らむ。ふくらみの中心に、黒い点がひとつ生まれた。穴だ。小さく、しかし確かに深い穴。そこから、濡れた空気が吐き出されるように、白い息がもわっと立った。
穴の縁に、何かが見えた。
髪でも布でもない。細い、細い、黒い糸の束。絡み合って、雪に張り付いている。私はそれが“まつげ”だと理解してしまった。理解した瞬間、身体の奥が拒絶で痙攣した。
穴の中に、目があった。
開いていないのに、こちらを見ている。
まぶたの裏側から視線だけが押し出され、穴の縁に貼り付いて、私の顔を舐めた。冷たいのに、粘る視線。まるで、冬の底に沈めた指を、ぬるい水が包むような感覚。
私は後ずさった。雪に足を取られ、転びそうになった。そのとき、背後の暗がりで、もう一つの“線”が生まれた。
今度は、私の足元から。
私の立っていた場所から、滑り台の頂上へ向かって、細い沈みが伸びていく。誰かが“上へ滑った”跡だ。あり得ない。けれど線は、確かに上へ向かって増えていった。
線の終点、踊り場の手すりの内側で、雪がふっと沈み、そこに“形”が立った。
人の形ではない。背が低すぎる。けれど子どもでもない。肩がなく、首がなく、頭だけが異様に丸い。雪の上に置かれた、濡れた袋みたいな塊。その表面に、さっきの指の窪みが無数に浮き出て、押したり引いたりしている。中身が、外へ出ようとしている。
袋の上部が裂けた。
裂け目から出てきたのは、手ではなかった。指が五本あるだけの、“手に似たもの”が、何本も絡まって束になっていた。白い雪を掴み、掴んだ雪が黒く汚れて、また白に戻る。そのたびに、汚れが私の方へにじむように広がった。
私は逃げた。
走りながら振り返ってしまったのは失敗だった。滑り台の斜面に、新しい線が増えていた。一本、二本、三本――同時に、何かが滑っている。透明な中身が、何往復もしている。遊具の上で、冬だけの“遊び”が始まっていた。
翌朝、広場には足跡がひとつもなかった。
滑り台の雪も、何事もなかったようにふっくら戻っていた。
ただ、私の玄関の前だけ、雪が薄く削れていた。
鍵穴のあたりに、五つの丸い窪みが縦に並び、指で押されたみたいに沈んでいた。爪の輪郭はない。大きさが不揃いで、雪の下から、ぬるい体温だけが滲んでいる。
ドアの内側で、金属と布が擦れる感覚がした。
まだ、誰かが滑っている。
私の家へ向かって、上へ、上へ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


