手を下ろさぬ

写真怪談

北の街の中心に、天井の高い長いアーケードがある。冬でも風を避けられるせいか、正月の三が日は人の流れが絶えない。二日の夕方、そこに“商店街の顔”として置かれる、たぬきを模したキャラクターが正月飾りに囲まれて立っていた。黒い和装、上げた片手、作り物の笑顔。紅白の花枝が左右からせり出し、背後には昔ながらの日本の凧――やっこだこ(奴凧)が、まるで見下ろすように掲げられている。

その写真が、わたしの端末に届いたのは夜だった。送り主は、年始の挨拶代わりに「今年もよろしく」とだけ添えていた。写っているのは、たぬきの顔と、花枝と、きらびやかな看板のにじみ。ごく普通の観光スナップだ。

違和感は、二度目に開いたときに来た。
たぬきの目が、少しだけ“深く”なっている。
真っ黒な楕円が、ただのプリントではなく、穴のように沈んで見えた。画面の光が、そこだけ吸われる。拡大しても解像の問題ではない。むしろ輪郭はくっきりして、穴の縁だけが湿って見える。

さらに奇妙だったのは、背後の奴凧だ。あの鋭い目が、写真を開くたびに、ほんの少しずつこちらへ寄ってくる。位置が変わるのではない。視線だけが、距離を詰めてくる。気のせいだと思うには、寄り方が一定だった。スクロールを止めても、指を離しても、じっと追いすがってくる。

翌日、送り主に聞いた。「これ、なんか加工した?」
返事はすぐに来た。してない。撮ったまま。二日だから人が多くて、撮り直す暇もなかった、と。

その直後、もう一枚の写真が送られてきた。
同じ場所、同じたぬき、同じ花枝。違うのは、周囲に写り込んだ人の数が増えていることだけ——のはずだった。

人の顔が、ない。
正確には、顔の部分が、たぬきの目と同じ黒で塗りつぶされている。目鼻口の凹凸が消え、ただ黒い楕円が、肌の位置に浮いていた。マスクでも、ブレでもない。黒は画面の発光よりも黒く、穴みたいに深い。

冗談だろうと思って、送り主のアイコンを見た。
いつもなら笑っているはずの横顔が、そこだけ、つるりとしている。表情が読めない。撮られた瞬間の“顔”だけが、空白になっている。

わたしは、そのアーケードへ行った。用事はない。ただ確かめたかった。
正月飾りはまだ残っていた。紅白の花枝も、あのたぬきも。人だかりができ、誰かが順番にスマホを構え、シャッター音が鳴るたびに、たぬきの上げた手がわずかに揺れる。着ぐるみなら、よくある仕草だ。そう思うのに、揺れが“拍”に合いすぎていた。シャッター音の間隔と、揺れの間隔が、ぴたりと重なる。

その瞬間、背後の奴凧の目が瞬いた。
蛍光灯のちらつきでも、看板の反射でもない。まぶたが、確かに下りた。上がった。目が開いたとき、視線は——わたしの胸元のスマホに刺さっていた。

気づくと、花枝が少しだけ近かった。
飾りのはずの紅白の蕾が、息をするみたいに膨らみ、ほころび、また閉じる。匂いがした。正月の花の甘さではなく、湿った布と、古い化粧の粉と、冷えた鉄の匂いが混じった匂い。

わたしはショーケースのガラスに映る自分を見た。
そこにいるはずの自分の顔の中心が、抜けていた。
目と鼻と口の位置に、黒い楕円が三つ。いや、三つではない。ひとつの穴が、顔の形に合わせて広がっている。穴の縁が、たぬきの頬の線みたいに、笑いの形を描いている。

背後で、シャッター音が鳴った。
たぬきの手が揺れた。
その揺れに合わせて、わたしの頬の皮膚が、内側へ引かれる感覚がした。笑ってもいないのに、笑顔の形に、勝手に。

逃げようとしても、足が前に出ない。床のタイルが粘る。視線を上げると、たぬきの黒い目の穴の奥に、もっと小さな“目”がいくつも並んでいるのが見えた。赤と白の蕾みたいに、粒の目が密に詰まり、こちらを数えている。ひとつ、ふたつ、みっつ。

そのとき、たぬきの上げた手の内側が、わずかに裂けた。
縫い目の間から、指が出た。人間の指ではない。節が多すぎる。爪が薄く、濡れた紙みたいに光る。指は空を掴み、何かを“引き抜く”動きをした。引き抜かれたのは、見えない糸だった。わたしの喉の奥から、細い糸がずるりと伸びた気がした。

声が出ない。
新年の挨拶も、驚きの声も、息も、笑いも。
ただ、顔の穴が深くなるだけだ。

帰宅してから、端末の写真を開いた。
たぬきは同じ場所で同じ笑顔をしている。紅白の花枝も、鋭い目の奴凧も。
違うのは、画面の端に写り込んだ“わたし”だった。

そこに、顔のない人が立っている。
黒い穴だけの顔で、スマホを持ち、こちらを向いている。
そしてその人の頭の上に、たぬきの手が重なっていた。肩に手を置くように。いや、祝福するように。手を下ろさないまま。

三が日が終わると、飾りは片づけられる。
たぬきも、花枝も、奴凧も、倉庫に仕舞われるのだろう。

でも、写真の中では片づかない。
シャッターが切られた回数だけ、手招きは増える。
顔の穴は、増殖する。

わたしの端末には今も、通知が来る。
「今年もよろしく」
送り主の名前の横にあるアイコンは、もう、顔がない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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