雪の下の零番改札

写真怪談

北海道の田舎の、稼働中の駅だ。
雪は屋根を丸ごと飲み込み、渡り廊下の青い骨組みだけが、冷えた空に浮いている。階段の下は乗客が立ち入らないはずの空間で、無造作に置かれた青いコンテナが、駅の「余りもの」を全部押し込めているみたいに見えた。

朝夕、改札はちゃんと動く。列車も来る。
それでも、雪の日のこの駅には、いつも遅れて届く気配がある。人ではない。誰かが“ここにいたこと”だけが、何時間も遅れて、しんしんと降ってくる。

最初に変だと思ったのは、改札の音だった。
誰もいないのに、ピッ、と短く鳴る。ICカードの注意書きが貼ってあるせいで、余計に現実味がある。空気の乾いた日に限って、その音が、駅舎の奥から一度だけ返ってくる。

雪が深くなった夜、帰りの列車が遅延して、私は一人で待っていた。
ホームへ渡るために階段を上がろうとしたとき、視界の端で、階段下の暗い空間に“動き”が落ちた。人影ではない。雪の白さが、そこだけ一瞬、濃くなった。

階段の下は立入禁止だ。柵の向こうに、青いコンテナが置かれている。
その扉に、雪が貼りつくように薄く固まり、指でなぞったみたいな筋が何本も走っていた。凍った跡にしては、妙に新しい。そこだけが、さっきまで呼吸していたみたいに、うっすら曇っている。

耳を澄ますと、ピッ、という音がした。
今度は改札ではない。コンテナの中からだ。

笑ってしまいそうだった。物置代わりのコンテナが、ICカードを読んでいるわけがない。
なのに、次の瞬間、改札の方が応えた。ピッ、と。
“呼び合っている”みたいに、正確に一往復で止まった。

私は帰りたかった。早く暖かい場所へ行きたかった。
だから、見なかったことにして改札を抜け、渡り廊下へ向かった。高架の通路は、雪の光を受けて青白く、壁の窓は夜を薄く切っている。誰もいないのに、足音だけが、私の少し後ろから同じ間隔で付いてきた。

振り向く勇気はなかった。
代わりに窓ガラスに目をやった。反射するはずの私の顔の横に、もう一つ、輪郭が重なっていたからだ。

それは人の形だった。
首から下だけが、古い外套みたいに重く垂れている。顔のあたりは、窓の結露に溶けたみたいに白く、何もない。息をしていないのに、ガラスだけがうっすら曇る。

私は歩幅を上げた。足音も上がった。
階段を降りるとき、違和感が決定的になった。段が一つ多い。数え間違えではない。体が勝手に、最後の一段を探して揺れた。

その“余分な一段”の先に、もう一つ改札があった。

駅の改札は階段の左にある。私はそこを通ってきた。
なのに、渡り廊下の降り口に、見慣れない簡素な改札機が置かれていた。表示は暗く、ゲートだけが半開きで、雪の粉が薄く舞っている。ピッ、という音が、そこからも聞こえた。

私は立ち止まった。
ゲートの向こうは、ホームではなかった。線路もない。除雪もされていない、ただの雪原が広がっている。けれど、雪の下に“並び”があるのが分かった。

人が列を作っている形の、盛り上がり。
肩と肩の間の隙間。帽子の丸み。立ったまま凍ったような、規則正しい凹凸。
そして、その列の先は、階段の下――コンテナの置かれた暗がりへと、まっすぐ吸い込まれていた。

そのとき、雪の表面が、すう、と沈んだ。
列の一番前が、一歩ぶんだけ“進んだ”のだ。足跡は出ない。雪は乱れない。ただ、形だけが、確かに前へずれた。

私は息が止まった。
窓の反射にいた“顔のない影”が、今度は私の背中のすぐ後ろに移っていた。音もなく、距離だけが詰まる。ひんやりした気配が、襟首の内側に落ちてくる。

逃げようとした。身体が動かない。
改札機の表示が一瞬だけ点いた。駅名ではない。時刻でもない。
「遺失物」とだけ、白く出た。

次の瞬間、コンテナの方で、金属が撓む音がした。
中から押されている。内側から、ぎゅっと。
押されるたびに、雪の列が一人分ずつ沈み、コンテナの扉の結露の筋が増えていく。まるで、駅が“乗り損ねた客”を、時間ごと保管しているみたいだった。

私は叫べなかった。
その代わり、ポケットの中のスマホが震えた。通知ではない。圏外のはずなのに。
画面に、見たことのない時刻表が開いていた。終電の下に、もう一行だけ増えている。

00:00 零番線 到着

私は反射的に画面を閉じ、走った。
足はもつれ、段が足りない。余分な一段が邪魔をする。振りほどくように階段を飛び降り、いつもの改札へ戻った。改札は何事もなく、淡いランプを点けている。私はカードをタッチした。ピッ、と鳴って、普通に出られた。

翌朝、駅はいつも通りだった。
雪の屋根。青い渡り廊下。錆びた支柱。階段下の暗がり。コンテナ。
ただ、コンテナの扉に貼られた管理票が一枚増えていた。誰かの忘れ物の記録だろう。濡れた紙が、乾ききらずに波打っている。

そこに、私の名字が印字されていた。

私は駅員に聞けなかった。
稼働中の駅で、立入禁止の空間に、なぜ私の名前があるのか。
代わりに、改札の前を通るたび、耳を澄ます癖がついた。ピッ、という音が、誰もいない空間から返ってこないか。

雪の日の夜、渡り廊下の窓に、自分以外の輪郭が重なる。
その輪郭は、いつも少しずつ、私に近づいている。
そして階段は、毎回、ほんの一段だけ増える。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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