夕方の幹線道路は、昼の顔を引きずったまま雑に明るい。車列の音に混じって、歩道脇のボラードが鈍く光り、風は排気の匂いを運んでくる。
その脇に、取り壊しが決まった団地がある。無人で、封鎖されている。それだけで、街の音が一段だけ低くなる気がした。
オレンジの仮囲いと金網の扉。下には黒黄の帯で「安全第一」。
皮肉だと思う余裕があったのは、最初の数日だけだった。
団地の共通入口へ下りる階段が、金網の向こうに見えている。
ただの入口だ。だけど、入口というものは、いつだって“どちら側のため”にあるのか曖昧だ。
ある夕方、晴れているのに、入口だけが夜みたいに沈んでいた。
金網の上に取り付けられた作業灯が、白く鋭く点いていたからだ。周囲の影を押し潰して、階段の降り口だけを浮かび上がらせる。その光は、呼び鈴みたいに遠慮がなかった。
金網は閉じている。鍵も掛かっている。
なのに、私は自分の足が勝手に近づくのを止められなかった。耳が、音を探していた。団地の中から聞こえるはずのない生活音を。
車の途切れる瞬間に、音がした。
コツ。
コツ、コツ。
階段を降りる足音だ。乾いた晴天の夕方なのに、湿った靴底がコンクリを叩くような、重い音。
金網の向こうを覗き込むと、階段の一段目に、水の筋みたいな光が走っていた。
濡れた足跡だと思った。そう見えた。けれど、足跡は階段を“降りて”いるのではなく、“上がって”きているように見えた。下の暗がりから、こちらへ。
作業灯が一度だけ弱く瞬いた。
瞬きの間に、階段の踊り場に何かが立っているのが見えた。
人の形。
ただし、顔の位置が、暗さではなく“空白”だった。輪郭だけがそこにあって、内側だけが抜け落ちている。光が当たっても埋まらない。穴のような顔。
それが、こちらを見ていた。
私は息を止めた。息を止めたまま、金網の格子を数えた。現実にしがみつくために。
その間に、足音が一段、近づいた。
コツ。
コツ。
金網の扉が、外側から触られたみたいに、わずかに震えた。
チェーンが鳴る。金属の乾いた音が、妙に丁寧に響いた。誰かが“開け方”を知っている音だった。
下の帯の「安全第一」が、光の中で浮く。
安全。第一。
命令文みたいだった。
私は後ずさった。逃げた。
走って、コンビニの明るい自動ドアに吸い込まれて、ようやく呼吸が戻った。店内放送がうるさいほど安心した。客の咳払いが、世界を固定してくれた。
それでも、家へ戻る道の途中で、気づいてしまった。
自分の影が、少し遅れてついてくる。
街灯の下で、私の影は私と同じ形をしている。
だけど、団地の前を通るときだけ、影の足元が“濡れる”。黒い水たまりみたいに広がり、影の輪郭が金網の方へ伸びる。
影が、入口を覚えている。
次の日、団地の前で立ち止まらないようにした。
それでも作業灯は点いていた。夕方の晴れ空の下で、そこだけ夜を作って、入口を照らしていた。
金網の向こう、階段の一段目に、スリッパが並んでいた。
白いもの、茶色いもの、子ども用の小さなもの。きちんと揃っている。
封鎖された入口に、そんなものがあるはずがない。撤去されているはずだ。無人なのだから。
スリッパの列のいちばん端に、一足だけ空きがあった。
そこが、作業灯の真下だった。
私はそのとき、言葉にならない確信に刺された。
“帰ってくる”ための入口ではない。
“戻す”ための入口だ。
団地が無人になったのは、住人がいなくなったからじゃない。
住人が“出たことにされただけ”で、まだ中にいる。
取り壊しが決まって、行き先が決まらなかった人たちの生活が、引っ越しの書類の外側にこぼれて、入口の暗がりに溜まっている。
そして夕方になると、作業灯が点いて、金網が閉じて、「安全第一」が命令を出す。
この建物の“安全”は、外へ出ないことなのだ。
その日の夜、私は玄関の鍵を差し込めなかった。
鍵穴の形が、微妙に違う。
いや、鍵穴が違うのではなく、私の鍵が違う。いつもの鍵束の中に、見覚えのない銀色の鍵が一本混じっている。団地の共通玄関にありそうな、古いタイプの鍵。
タグのような金属片がぶら下がっていて、そこに部屋番号が刻まれていた。
私の住所とは別の番号が。団地の、ありふれた部屋番号が。
眠れずに窓から外を見ると、遠くの団地の入口が白く光っていた。
作業灯が、深夜にも点いていた。
金網の前に、ひとり立っている影がある。顔の穴が、こちらに向いている。
翌朝、私は自治体の解体予定の掲示を確認しに行った。
掲示板には、工事期間の紙が新しく貼られていた。
そこには、注意事項として大きく書かれていた。
「安全第一」
「入居者は所定の入口よりお入りください」
入居者。
無人の建物に。
金網の前には、スリッパの列が増えていた。
そして、空きはもう一つあった。
作業灯の真下に、二つ分。
私の影が、私の足元から、静かに抜ける感覚がした。
影は金網の方へ伸び、格子の隙間に薄く溶けて、階段へ向かって“上がって”いった。
影だけが、入居していく。
私は咄嗟に目を閉じた。
開けたとき、金網の向こうの踊り場に、二人立っていた。
一人は、昨日見た顔の空白。
もう一人は、私の服と同じ色の上着を着て、私と同じ鍵束を手にしていた。
ただし、そいつの顔も、同じように抜け落ちていた。
作業灯が、ゆっくり、まばたきをする。
白い光が明滅するたびに、二つの空白が、こちらへ少しずつ近づく。
金網の扉が、外側から押されたように震え、チェーンが、ほどけ方を思い出す音を立てた。
私は、叫ぶ代わりに背を向けて走った。
背中で、「安全第一」の文字が、何かを確かめるように光っているのが分かった。
誰かが外にいる。
なら、戻せる。
戻すものがある、と。
それ以来、夕方になると、私の鍵束は重くなる。
見覚えのない鍵が、一本ずつ増えていく。
そして、団地の入口の作業灯は、今日も点いている。
晴れた夕方のはずなのに、そこだけが夜で、そこだけが入口で、そこだけが“帰宅時間”を守っている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


