逆向きの踏切は、終電のあとに開く

写真怪談

あれから、私はその踏切を避けていた。
理由は単純だ。電車の窓いっぱいに押しつけられた子どもの顔を、はっきり見てしまったからだ。数が多すぎて、表情が揃いすぎていて、窓の内側が「車内」ではなく、別の場所の壁に見えた。

年の瀬の忘年会の帰りだった。
終電はとっくに終わり、駅前の店もシャッターを下ろし始めている。酒はいい感じに回っていて、頭の中だけがあたたかく、身体の芯だけが冷えていく。そこでよりによって、急にトイレに行きたくなった。

「近道……コンビニ……」
理性は、遠回りを選べと言っていた。あの踏切を避けろ、と。
でも酔いは、地図の上に“最短”の線だけを引く。

気づいたときには、私は例の踏切の前に立っていた。

雨上がりのアスファルトは濡れて黒く、街灯の白が薄い膜になって張りついている。レールだけが妙に艶めいて、濡れた金属の線が地面から浮き出して見えた。
道路は斜めに食い違い、色の違う舗装が矢印みたいに交差している。左手には、金色の飾り灯が巻き付いた木があって、その光が水たまりにちぎれて落ちていた。明るいのに、どこも暖かくない。

前回は、電車に隠されて「踏切の向こうが途切れて見える」角度だった。
今夜は逆方向だ。こっちからなら、道が続いているのがわかる――はずだった。

なのに、踏切の向こう側が、妙に“薄い”。
線路をまたいだ先の夜が、背景の黒ではなく、紙の黒に見える。奥行きがない。吸い込まれる怖さじゃなく、貼り付けられた怖さだった。

私は唾を飲み込み、足を出した。
トイレのことしか考えないようにして、レールを跨ぐ。靴底が濡れた金属に触れた瞬間、冷たさが骨まで刺さった。

……音がない。

本来なら、ここには何かしらの決まりごとがある。
警報。振動。風圧。遠くから近づく鉄の気配。
終電後でも、踏切は踏切としての“姿勢”を保っているはずなのに、今夜のそれは、ただの交差点みたいに黙っていた。

二歩、三歩。
踏切を渡り切った――はずだった。

左のイルミネーションの木が、まだ左にある。
同じ光のちぎれ方、同じ水たまりの形、同じレールの艶。

私は立ち止まって振り返る。
踏切が、背後にもある。さっき渡ったはずの線路が、また足元から伸びている。

酔いのせいだ、と思おうとした。
でも酔いは景色を歪ませても、同じ水たまりを複製したりはしない。街灯の位置も、影の落ち方も、全部が“そのまま”戻っている。

喉の奥が、ひゅっと鳴った。
前回の記憶が、今夜の暗闇に重なってくる。窓に貼りついた顔。揃って向いていた視線。踏切の先――道路が途切れて見える、あの空白。

背筋を刺すような視線を感じて、私はレールを見た。
濡れた鉄が、街灯を線にして映している。そこに、映ってはいけないものが混じっていた。

小さな顔。
水たまりの反射じゃない。レールそのものの艶の中に、ぺたりと貼りついたような輪郭がある。額、頬、目の位置。
窓ガラスに押しつけたときの、あの“平たさ”。

私は目を逸らした。
逸らしたはずなのに、視界の端で、顔が増える。一本のレールに一つではない。枕木の影にも、砂利の黒にも、暗い部分ほど輪郭が浮く。

線路の右手――屋根のある暗がりが、空洞みたいに口を開けていた。
駅のホームに似た構造なのに、どこにも案内がない。終電が終わったあとの空間は、ただの“閉店後”になるはずだ。けれどそこは閉じていない。閉じる必要がない場所のように、静かに照明だけが生きている。

その暗がりの縁に、小さな影が立った。
背の高さが揃っている。動かない。こちらを見ているのに、目が合わない。視線が、私の少し後ろ――踏切の“向こう”に固定されている。

私は今度こそ、走ろうとした。
コンビニはどこだ。トイレは。ここから離れろ。
だが足が出ない。膝から下だけが、粘ついた床に貼られているみたいに重い。

レールが、かすかに鳴った。

ぎい、と金属が擦れる、ほんの小さな音。
終電は終わっている。それでも線路は鳴る。線路が鳴るときは、何かが来るときだ。

暗がりの影が、いっせいに“こちら”へ体重を傾けた。
歩かない。跳ねない。ただ、並んだ顔が、同じ角度で少しだけ近づく。
そして私は理解した。あの子たちは、電車の窓に貼りついていたのではない。あちら側から、こちら側へ“順番”を待っていたのだ。

踏切は道を繋ぐものじゃない。
向きを変える装置だ。
終電のあと、逆方向から入ると、戻る先が「こちら」ではなくなる。

背後で、何かが開く気配がした。
遮断機でも、扉でもない。景色の継ぎ目が、ぴり、と剥がれる感触。
私は振り返れなかった。振り返ったら、次は“誰の顔”が窓に貼りつくのか、わかってしまう気がした。

だから、目の前の黒に向かって、最後の力で息を吐いた。
その吐息は白くならなかった。
代わりに、濡れたレールの艶の中で、私の顔だけが、薄く浮かび上がった。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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