空気の脂

ウラシリ怪談

ある工場で、「空気からつくったバター」の試作が始まったそうです。農地も家畜も使わない……空気中の二酸化炭素を集め、水から取り出した水素と合わせ、加熱と酸化を経て脂肪を生む。そういう説明書きが、見学者用のパンフレットに載っていたといいます。
発表は夏の初めでした。試作品が完成したのは七月。味は“本物”に近い、と。著名な支援者が先に口にして、驚いたような言葉を残した……そんな話も、広報資料には添えられていたようです。

異変の気配は、数値の端から始まったとされます。品質管理室の机に、毎朝同じ形式の紙が出てくる。バター一カロリーあたりの排出量――通常品なら二・四グラム、試作品は〇・八グラム以下。そこまでは、計算の上では整っていたそうです。
ただ、その紙だけが、なぜか湿っていました。プリンタの熱では説明のつかない、冷たい湿り気で、指でつまむと呼気を吸われるように指先が鈍くなる。紙面の余白に、うっすらと指紋のような渦が残ることがあったといいます。

製造ラインの中心には、二酸化炭素を空気から引き抜く装置が据えられていたそうです。稼働中、塔の内側から、息を吐くような音が漏れる。換気のファンが回るたび、誰かが小声で「……」と続き言葉を探しているみたいに聞こえる。
作業者の一部は、空調のせいだと笑っていたらしいのですが、笑い声のあとに必ず“間”ができた。笑った本人が、次の息を思い出せないように黙る……そんな癖が増えたそうです。

試作品の脂は、白く、匂いが薄い。鍋で溶かすと、泡立ちが少なく、静かに広がる。ところが、フライパンの表面に残る油膜が、焦げでも汚れでもない黒い筋をつくりはじめたといいます。
筋は文字のようでした。短い一文が、読めるか読めないかのところまで浮かび、すぐに崩れる。褒め言葉の形をしていたそうです。“信じられない”とか、“本物”とか……けれど、筆跡ではない。煤でもない。温度を下げると、その文字だけが油膜の奥に沈んで、次に温めたとき、別の言葉になって浮かび上がることがあったようです。

それでも、研究員たちは理由をつけ続けました。酸化の過程で副生成物が……測定器の誤差が……。
ただ、その頃には、気体成分の追跡のためにガスクロ(ガスクロマトグラフ。気体成分を分離して分析する装置)のログも毎日確認されていたそうです。
ところが、記録のほうが先に壊れたといいます。
ガスクロの分析用ログに、原料の欄が増えたのです。「空気」「水」「電力」と並び、最後に「呼気」とだけ打たれていた。誰かの悪戯だと消しても、翌日には戻っている。しかも「呼気」の横に、提供者番号のような数字が増えていく。
見学者が来た日の翌朝、その数字が跳ね上がることがあったそうです。

異変の発現は、工場の外ににじみました。近隣の人が「最近、駅まで歩くと息が浅い」と言い出した。店の厨房で火を使うと、換気扇が妙に重く唸る。
そして、工場の冷蔵庫だけが、二酸化炭素センサーで“マイナス”を示すようになったといいます。ありえないはずの表示です。けれど、表示が小さくなるほど、社内の欠勤が増える。理由は決まって「声が出ない」「息が続かない」。医師に異常は見つからないのに、話すだけで咳き込み、言葉が途切れる。

最後に残った紙があるそうです。排出量の欄が、〇・八でも二・四でもなく、〇・〇と印字されていた。紙の下端に、注釈が一行だけ増えていた。
「農地は不要。だが、空気は必要」

そしてある日、最後の点検ログだけが、零時零分零秒で止まった。そこから先が続かない。
二酸化炭素センサーの表示は、ありえない“マイナス”を示し続けたそうです。けれど社内では、それを異常だと言い切れる者が減っていった……そんな記録しか残っていないようです。

この怪談は、以下のニュース記事をきっかけに生成されたフィクションです。

米スタートアップの「空気からできたバター」。農地不使用でCO2の排出削減

米スタートアップの「空気からできたバター」。農地不使用でCO2の排出削減 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
米国スタートアップが開発した、CO2と水が原料のバター。牛のメタン排出や、代替食品の栽培による森林破壊も回避できる解決策として期待されています。その味は「バター風」ではなく、まるで本物のようだといいます。

 

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