緑道の空気だけが、ほかの住宅地と違っていた。道幅は人がすれ違えるかどうか。両側の樹木がかぶさり、昼でも薄暗い。柵の向こうには細い川が静かに流れていて、水音がずっと「ここは道じゃない」と囁いているみたいだった。
落ち葉が異様に厚く積もっている。舗装は見えているのに、足元の感触は土に近い。歩くたび、乾いた葉が沈んで、少し遅れて戻る。その遅れが、誰かの呼吸のリズムに似ていた。
問題の瓦の山は、緑道の中央付近、柵で仕切られた片隅にあった。白い壁に枯れ蔓がびっしり絡み、瓦は波のようにうねって積まれている。表面は苔と煤けた灰色で、長い錆びた棒が、横切るように渡されていた。上には黒いゴムマットのゴミ。蓋みたいに、ぴたりと乗っている。
最初は「農家か寺の家の裏に、まとめて捨てたんだろう」と思った。墓地の裏手が近いせいで、こういう場所には不自然なものが集まる。誰も気にしない。誰も片づけない。
けれど通るたび、瓦の波が変わっていた。増えたとか減ったとかではない。波の“位相”が、ほんの数センチずつずれる。昨日まで谷だった場所が、今日は山になっている。落ち葉の沈み方と同じで、遅れて戻る。瓦なのに。
ある夕方、道の真ん中で立ち止まってしまった。水音が、急に遠くなった気がしたからだ。視線を柵の向こうへ落とすと、川面に、緑道の樹影だけでなく――「屋根」が映っていた。
ここに屋根なんてない。あるのは空だ。なのに川面には、古い瓦屋根が長く連なって、緑道をすっぽり覆っている。瓦の山の波が、そのまま伸びて、道の上に“天井”を作っている。
見上げると、確かに空はある。それでも胸が詰まった。空があるのに、屋根の下にいる感じがする。音が吸い込まれ、匂いがこもる。緑道が“屋内”になる。
瓦の隙間から、湿った息が漏れた。
それは風でも腐葉土の匂いでもない。人の部屋の匂いだった。畳が湿り、古い衣服が干されずに重なった匂い。墓の裏手に漂う線香と、納屋の黴が混ざったような――生活が、腐りかける匂い。
錆びた棒が、こつ、と鳴った。
誰も触れていないのに、棒が瓦の上をわずかに転がり、また止まった。次の瞬間、足元の落ち葉が沈んだ。自分が一歩、踏み出してしまっていた。
こつ。
棒が鳴り、落ち葉が沈む。
こつ。
また鳴り、また沈む。
まるで棒が、こちらの歩数を数えている。緑道を歩くたびに、瓦の山が呼吸し、棒が勘定し、屋根が川面に広がっていく。
「数えるな」
どこからともなく、そう思考だけが差し込まれた。声ではない。言葉にしない方がいい、と身体が勝手に理解している感じ。
瓦の隙間を覗いてしまった。
隙間は暗いだけのはずだった。だがそこには、部屋があった。瓦の積み重ねの奥に、畳の縁が見える。障子の白が、薄く光っている。狭い部屋だ。天井が低い。低すぎる。
その部屋の奥で、“何か”が座っていた。
輪郭が定まらない。人に見える瞬間もあれば、蔓の絡んだ塊に見える瞬間もある。ただ、こちらを見ているという感覚だけが確かだった。目が見えるわけじゃないのに、視線の痛みがある。
黒いゴムマットが、すこしだけ持ち上がった。
蓋が開く。生活の匂いが濃くなる。瓦の隙間が、口に見えた。波打つ瓦が、唇の皺みたいに重なり、湿った息を吸っている。
そして、屋根が、こちらへ“掛かって”きた。
空が狭まる。実際に暗くなるわけじゃないのに、頭上が低くなる。天井が下りてくる感覚。肩が勝手にすくみ、首が縮む。屋内に入る時の癖が、屋外で出る。
逃げようとしても、緑道は狭い。落ち葉は深い。足が沈む。沈んだ分だけ、瓦の山が、同じリズムで沈む。呼吸が合ってしまう。
こつ。
棒が鳴った。
次の一歩を出した瞬間、足元の落ち葉ではなく、胸の奥が沈んだ。肺が、葉っぱみたいに押し固められる。吸う空気が、屋根裏の埃の味になる。視界の端で、川面の屋根が伸びる。伸びて、覆って、閉じる。
瓦の隙間の部屋が、少しだけ広く見えた。
「入れる」
そういう広さだった。人がひとり、収まる広さ。
その時、右下に転がっていた石が目に入った。反射みたいに掴んで、瓦の山へ投げつけた。鈍い音。だが屋外の音じゃない。部屋の中で物を落とした音――こもった、終わる音だった。
“何か”の輪郭が、わずかに近づいた気がした。
瞬間、背中の皮膚が焼けるように冷たくなり、走った。落ち葉を蹴り、狭い道を無理やり抜ける。振り返らなかった。振り返ったら、屋根が完全に掛かると分かったからだ。
緑道を抜け、住宅地の明るさに戻っても、水音だけが耳の奥に残った。夜、天井を見上げると、家の天井が一段低い気がした。錯覚だと笑おうとしたのに、笑えなかった。
玄関の上框に、薄い灰色の粉が落ちていた。瓦の粉だ。靴底からこぼれたのかと思って拭いたが、翌朝また同じ場所にある。拭くたび、少しずつ増える。
こつ。
どこかで棒が鳴る。
こつ。
数えられている。
その晩、夢で見た。瓦の隙間の部屋。畳の上に、落ち葉が積もっている。落ち葉の下から、白い壁に絡む枯れ蔓が伸びて、こちらの足首を撫でる。触れられていないのに、歩数だけが進む。
こつ。
夢の中で棒が鳴った瞬間、天井がさらに低くなった。
目が覚めると、胸の上に、重いものが乗っている気がした。手を伸ばすと何もない。なのに、息が浅い。屋根の下の息だ。
その日から、緑道を避けた。あの川の水音も避けた。観光地の方へ行けば人もいるのに、それでも避けた。
避けても、数えられている気がするからだ。
夜、天井のきしみが一段ずつ増える。たとえ本当は何も増えていなくても、増えたと感じた時点で、もう屋根は掛かっている。
屋根は、捨てられた瓦で作るんじゃない。
捨てられた“家”で作る。
そして家は、ひとり分の生活を、もう一度だけ欲しがるのだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


