歩道橋の上は、いつも「通路」ではなく「下面」だった。
首都高の腹が低く垂れて、その金属の肋骨が延々と並び、空気の逃げ場を奪っている。右手の金網の向こうには交差点があって、信号が点滅し、車の列が普通に流れているのに、こちらだけは薄暗い箱の中だ。
青い横断幕が、通路の向こう側にぶら下がって見える。
スピードをおとす勇気が身を守る。
交通標語にすぎないはずの言葉が、ここでは何かの禁忌みたいに胸に引っかかった。
その日、通路の奥に一人だけ人がいた。黒い上着に黒いズボン。こちらに背を向けて、一定の速度で歩いている。
追い越そうと思って足を速めた。距離は縮まらない。相手が同じように速めているわけでもないのに、まるで床そのものが伸びるみたいに、二人の間だけが延びていく。
不思議なのは音だった。
自分の靴底が六角形の舗装を叩く音はある。だが、前を歩くはずの足音がない。代わりに、頭上で微かな擦過音がした。金属の肋骨を、濡れた布が引きずられていくような、いやな音。
反射的に立ち止まった。
すると擦過音もぴたりと止まり、通路の奥の黒い背中だけが、わずかに揺れた。揺れたのは人ではなく、その輪郭だった。輪郭だけが、風に吹かれた煙みたいにほどけ、また集まり直す。
スピードをおとす勇気が身を守る。
横断幕の文字が、なぜかその瞬間だけ、やけにくっきりと読めた。
もう一歩だけ、と進んだ。ゆっくり。
すると距離は縮まった。縮まったというより、通路が「本来の長さ」に戻ったように感じた。頭上の金属は静かで、交差点の音も戻ってきた。勇気というのは、走らないことなのかもしれない、と妙に納得しかけた。
その納得を踏み抜くみたいに、前の影が急に“薄く”なった。
人の形をした黒は、布の厚みを失って、ただの染みになり、床と左側の壁にぺたりと貼りついた。貼りついたまま、滑るようにこちらへ戻ってくる。足ではなく、影として。
同時に、頭上で擦過音が再開した。今度は速い。
肋骨の隙間を、何かが「這って」いる。金属の下面に吸い付くような気配。見上げても何も見えないのに、空気だけが重くなり、肩に手を置かれたように体が沈む。
走り出したら終わる。
なぜか、それだけは分かった。
だから、息が切れても、膝が笑っても、歩幅を小さくして進んだ。
金網の向こうの明るい街を、わざと視界に入れた。交差点の白線、信号、車のヘッドライト。普通のものを数えるように、ひとつずつ確かめた。自分がまだ、こちら側にいると確認するために。
影の染みが、足元まで来た。
人の形をしていない。ただ黒い。濡れた紙みたいに、しっとりと床に広がり、靴先に触れた。触れた瞬間、足首が冷えた。骨の内側まで冷える冷たさで、影が“自分の影”の形を探っているのが分かった。
そのとき、頭上から何かが落ちてきた。
落ちてきたのは“影”だった。天井の肋骨から垂れた、異様に細長い影の帯。帯は床に触れる前にこちらへ折れ曲がり、私の背中にまとわりつく。布でも腕でもない。速度そのものを絡め取るみたいに、体の「急ぎたい部分」だけをぎゅっと締め上げてくる。
スピードをおとす勇気が身を守る。
文字が、喉の奥で反芻される。勇気が、身を守る。身を守るために、急がない。急がないために、息を吐く。
私はその場にしゃがみこんだ。
逃げる方向へも、進む方向へも動かない。速度をゼロにする。すると、背中の帯が一瞬だけ迷うようにたるみ、天井の擦過音が、ほんの少し遅れた。追いつけない。速度のないものには、追いつけない。
影の染みが、ぴたりと止まった。
止まったまま、形を変えた。さっきまで通路の奥にいた「知らない誰か」の輪郭に戻ろうとしている。だが戻りきれない。欠けたパズルみたいに、人の形をつくれず、黒いまま、私の足元にへばりついている。
その“欠け”が、どこにあるか分かった。
影が欠けているのは、胸のあたりだった。そこだけが薄い。勇気、と書かれた部分だけが。
やっと通路を抜けた。
交差点の風は普通の冷たさだった。信号はいつも通りに変わり、車はいつも通りに曲がっていく。振り返ると、歩道橋の中は相変わらず暗い箱で、金属の肋骨が無数に並び、何事もなかったように静かだった。
翌日、同じ横断幕を見た。
スピードをおとす が身を守る。
「勇気」の二文字だけが、薄く剥がれたように欠けていた。
それ以来、あの通路では急げない。
急ごうとすると、頭上にいるものが、肋骨の裏で体を起こす気配がする。擦過音が、私の呼吸の速さに合わせて速くなる。だから歩く。遅く、遅く。
ただひとつ困るのは、影だ。
夕方、街灯が点く頃になると、私の影が、いつも少しだけ先を歩く。通路の奥にいる「知らない誰か」みたいに、背を向けて。
距離は縮まらない。縮めてはいけないと、身体が知っている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


