車道はここまで

写真怪談

吹雪の日、あの下向きの矢印だけは頼りになる。
雪で縁石も白線も消える土地で、車道と歩道の境界を「ここだ」と指してくれる。等間隔に並ぶ赤は、視界が潰れても目だけは裏切らない。

その日もそう思っていた。
交差点の手前、腕木にぶら下がった矢印が、吹雪の白に刺さって見えた。前の車のテールランプが雪煙に溶けかけても、矢印だけは鋭く、真下を指している。

ただ一つ、変だった。
指している場所が、境界じゃない。
ほんの少し、車道の内側――タイヤが通るはずの場所へ寄っている。

最初は目の錯覚だと思った。雪面のうねりで距離感が狂う。風が強ければ、腕木がしなることもある。境界の目印が数十センチずれるくらい、あり得る話だ。
でも、等間隔が崩れていない。矢印はどれも同じ角度で、同じ「ずれ方」をしている。まるで誰かが、車道を細く削っていくみたいに。

前を走る黒い車が、無意識に矢印に合わせるように左へ寄った。
本来なら歩道側に寄り過ぎるはずなのに、矢印が内側を指しているせいで、車は「正しい」位置にいる感覚になる。境界を守っているつもりで、境界そのものが動いている。

次の矢印の下をくぐった瞬間、黒い車の足元の雪が、ぴたりと音を失った。
吹雪は続いているのに、そこだけ風が止まったみたいだった。雪煙が巻き上がらない。タイヤの音も消える。

そして、車だけがいなくなった。

衝突音もない。横転もない。テールランプが消える暇すらなく、ただ“欠けた”。
道路には轍だけが残っていた。轍は矢印の下を通り、境界の方向へゆっくり逸れ、歩道に吸い込まれていく。歩道の上は雪で盛り上がっているはずなのに、轍は沈まない。白い面が、薄い紙みたいに破れて、そこへ落ち込んだ跡だけが続いている。

私はブレーキを踏んだ。ハザードを点けたつもりだったが、点滅が見えない。雪の白が、光まで喰っていた。

フロントガラス越しに矢印を見る。
赤い三角の縁が、ヘッドライトに反射して“濡れた”ように光った。塗料の艶じゃない。生ぬるい湿り気の反射だ。
矢印は相変わらず真下を指している。境界を。車道と歩道の境界を。
なのに、その「真下」が、こちらへじわじわ近づいてくる。

気づいたとき、背中が冷たくなった。
矢印は境界を示しているんじゃない。
境界を作っている。

“車道はここまで”という意味は、車が通れる端のことじゃない。
この世界で、車という形でいられる限界のことだ。

前方、雪の向こうに白いSUVがいた。さっきの黒い車が消えたのを知らないまま、一定の速度で近づいてくる。
SUVは矢印の下へ入る直前、ほんのわずかにハンドルを切った。矢印に合わせるように。境界に沿うように。

そのとき、歩道側の雪面に、足跡が現れた。
誰も歩いていないのに、まるで雪の下から押し上げられるみたいに、踵の形が浮き、つま先が沈む。大人の足跡が、等間隔に、矢印と同じリズムで増えていく。

一歩、二歩、三歩。

足跡は歩道の上を歩いている。車道を横切らない。境界の向こう側だけを、きちんと踏んでいる。
それなのに、足跡の“影”だけが、車道へ伸びてきた。薄い灰色の線が、アスファルトの上に爪で引いたみたいに広がり、SUVの進路へ重なる。

SUVが矢印の下を通った瞬間、車体がふっと軽く見えた。
次の瞬間、雪の白に飲まれた。車は“滑って”消えたのではなく、“歩道へ移った”のだと分かった。轍が残る。轍が境界の向こうへ続く。けれど、車はいない。

残ったのは、運転席の高さにだけ浮かぶ息の白さだった。
誰かの呼吸だけが、そこにある。姿はない。声もない。ただ、白い吐息が数回、寒空に滲んで消えた。

矢印が、もう一つ増えた気がした。
さっきまで見えなかった位置に、赤い三角がぶら下がっている。等間隔を守ったまま、私の車の真上に、新しい“ここまで”が差し込まれている。

私は目を逸らさずに、ゆっくりバックした。
境界から離れれば助かると信じたかった。なのに、バックするたび、矢印も同じ分だけこちらへ増える。空に打ち込まれた赤い楔が、車道を狭め、逃げ道を細くする。

ふと、電線が鳴った。
ぶぅ……ん、と低く震え、雪の静けさの奥で何かが擦れる音がした。金属とゴムと、濡れた布がこすれるような音。
見上げたくなかったのに、首が勝手に上を向いた。

腕木の上、電線のたるみの影に、黒いものがいた。
人の形じゃない。ただ、足跡と同じ“間隔”で、そこに重みが移動していく気配がある。
矢印はその真下を指していた。あれの歩幅を、地上に写している。

境界の内側にいるうちは、車でいられる。
境界を踏んだ瞬間、車は車である必要を失う。
あとは歩道の世界――歩くものの世界へ、等間隔に連れていかれる。

私は思い切って、車を止め、ドアに手をかけた。
外に出れば助かるという発想じゃない。逆だ。外に出たら、足跡のリズムに取り込まれる。
だから、出ないために確認したかった。ドアを開けたら最後なのかを。

ドアを少しだけ開けた瞬間、冷気が刃のように差し込んできた。
そして、私の足元の雪に、私のものではない足跡が一つ、増えた。

等間隔で。
矢印と同じ間隔で。
私の車のすぐ横に。

ドアを閉めた。力任せに。指が痛むほどに。
足跡は消えない。消えるどころか、次の一歩が刻まれた。歩道側へ、きっちりと。

私はハンドルを握り、目を閉じずに前を見た。
矢印を“目印”として見ない。矢印の指す先を見ない。境界を見ない。
境界は、見たものから作られる。

そう言い聞かせて、ゆっくりと車を進めた。
矢印の列は、相変わらず等間隔で続いている。車道と歩道の境界を示す、北国ではありふれた赤い合図。
ただし、その合図が本当に示しているのが何の境界なのか、二度と確かめる気にはなれなかった。

数日後、同じ道を昼間に通った。
矢印は普通だった。境界を正しく指していた。雪壁も低くなり、歩道も見える。
それでも私は、無意識に車道の真ん中を外れないように走った。ハンドルを細かく修正しながら。

交差点を過ぎたあたりで、歩道の雪が少しだけ削れているのが見えた。
除雪の跡だろうと思った。だが、削れ方が妙に規則的だった。

等間隔の足跡が、雪の下からうっすら浮いている。
歩道の上を、まっすぐ先へ。
そして最後の足跡の真上に、赤い矢印がぶら下がっていた。

その矢印だけ、縁が濡れて光って見えた。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

タイトルとURLをコピーしました