川は細く、浅く、秋の落ち葉を抱えたまま動いていた。橋の上から見下ろすと、水の流れに沿って葉が寄せ集まり、島のように膨らんでいる。その島には、空のペットボトルや砕けた容器が引っかかり、風で少し揺れるたびに、濡れた紙の匂いがこちらまで届く気がした。
支流の清掃ボランティアに参加したのは、ほんの出来心だった。町内会の掲示板に「ゴミが増えています」と書かれていて、休日の午前を潰すくらいなら、と。
現場に着くと、年寄りが一本の枝を指差した。枝には赤い目印のテープがぶら下がっている。水面の上を横切るその線は、ちょうど落ち葉の島の手前で途切れて見えた。
「今日は、あの赤の先は触るなよ」
理由を訊いても、年寄りは笑わなかった。ただ、軍手を配りながら「昔からだ」と言った。昔から、という言葉はこの町でいちばん厄介だ。意味がないのに、意味がある。
作業は単調だった。落ち葉の島を熊手で寄せ、網ですくい、袋に詰める。水が冷たく、枝が指に刺さる。誰もが黙って手を動かしていると、島の中ほどに青いキャップが光った。ペットボトルだ。水に洗われたのか、妙に綺麗だった。
赤い目印の少し先だった。
気づけば、私は一歩、踏み込んでいた。足元の石が滑り、バランスを取るために手を伸ばす。葉が厚く積もった島に指先が触れた瞬間、湿った冷たさではなく、ぬるい皮膚の感触が返ってきた。
反射的に手を引いた。だが、引けなかった。
葉の下から、爪が出ていた。人の爪だ。泥で黒く、欠けていて、爪の間に落ち葉が詰まっている。その爪が、私の軍手を“摘まんだ”。
声は出なかった。喉の奥が乾いたまま固まり、体だけが硬直する。水の音が遠のいて、代わりに、葉が擦れる音だけが耳の中で大きくなった。さわ、さわ、さわ。まるで何十枚もの紙が一斉にめくられるみたいに。
葉が、わずかに盛り上がった。
落ち葉の島が呼吸するはずがないのに、膨らんで、沈み、また膨らんだ。私は自分の手を引き抜くことだけを考えた。軍手の繊維がきしむ。爪がさらに食い込む。ぬるさが増していく。水の中にあるのに、体温がある。
そのとき、水面が一瞬だけ鏡になった。
黒い淵のような水たまりに、私の顔が映る。いや、映ったのは“私だけ”ではない。肩の後ろに、もうひとつ輪郭があった。落ち葉でできた頬。濡れた木屑のまぶた。目の部分だけが、空洞みたいに暗い。
次の瞬間、鏡は割れたように揺らぎ、顔は消えた。けれど消えたのは、向こうの顔だけではなかった。私の顔も、そこから消えた。水面に何も映らない。空も枝も、私の腕さえも。
「戻れ!」
背中を強く掴まれた。誰かが私の襟を引き、私は尻もちをつくように川岸へ転がった。軍手が破れ、指先が露になっている。爪の感触は消えていた。けれど指の腹には、葉脈みたいな細い筋がびっしり刻まれていた。人の皮膚に、落ち葉の模様が移ったような筋。
年寄りが私の手を見て、顔をしかめた。
「言っただろ。赤の先は、拾っちゃいけないんだ。あそこは——落とし物が溜まる場所だ」
落とし物。ゴミのことかと思った。だが違う。年寄りは言い直した。
「名前とか、顔とか……そういう、落としたら困るもんがな」
その日の帰り道、私は自分のスマホを見て、胸が冷えた。ロック画面の顔認証が通らない。パスコードを入れて開くと、連絡先に自分の名前がない。SNSのアイコンが、灰色の丸になっている。自分で自分のアカウントを検索しても、出てこない。
家に帰り、家族に声をかけても、返事がなかった。台所に母がいるのに、私の存在に気づかない。肩を叩くと、驚いた顔をして「どちら様ですか」と言った。
翌朝、会社に行くと、私の席がなかった。私の名前の札が外されている。上司は名刺を差し出しながら「面接ですか?」と訊いた。冗談だと思って笑おうとして、笑えなかった。喉が、あの川の冷たさで塞がったままだった。
夕方、橋へ戻った。赤い目印のテープは風に揺れ、落ち葉の島は昨日より少し大きくなっている。島の端に、新しいペットボトルがひとつ引っかかっていた。透明な中に、見覚えのあるものが沈んでいる。
鍵だ。
私の家の鍵。キーホルダーに、私の名前を刻んだ札がついている。札の文字は、途中までしか読めない。最後の一画が、溶けたみたいに消えている。
川の水面が、また鏡になろうとしていた。黒い淵が、こちらを映そうとしている。映すのは顔だ。名前だ。存在の輪郭だ。
私は一歩も踏み出せなかった。赤い目印の手前で、ただ見ているしかなかった。落ち葉の島が、ゆっくりと呼吸をしている。そこに溜まっているのはゴミではない。捨てられたものでもない。
落とされ、拾われず、戻れなくなった人間の“欠片”だ。
そして今、私の欠片がそこに混ざり始めている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


