昼の散歩のついでに、住宅街の角を曲がったときだった。
電柱の上で作業車のアームが伸び、白いバケットの中にヘルメット姿の作業員が立っていた。信号機も横断歩道もない、ごく普通の生活道路だ。頭上には、細い電線が何十本も編み目のように張り巡らされている。
足元のスピーカーからは、工事中の注意を促すアナウンスが流れていた。
「ご通行中のみなさま、ご協力ありがとうございます──」
どこにでもある光景だと思いながら、私はふと右側の家の壁を見上げた。
黒く縦に伸びた影が、そこに貼りついていた。
バケットの縁、電柱、男のヘルメット。全部がくっきりと一枚のシルエットになって、真新しい濃いグレーの外壁に落ちている。
あなたが言ったように、「工事をしている人の影」がはっきり見えたのだが──私は、すぐにはそれが“ひとつだけ”だと信じられなかった。
影の中ほど、胸のあたりに、太い帯のようなものがかかっていた。安全帯だろう。
けれど、帯の下にある腕が、おかしい。
作業員は、高所での作業らしく両手で工具を持ち、電線をいじっているはずなのに、壁の中の腕は、片方だけがだらりと垂れ下がり、もう片方は、バケットの外側へと伸びていた。指が、柵の向こうに届きそうな角度で。
現実の男の腕は、そこまで大きく振り出されてはいない。
なのに、影の腕だけが、誰かの肩に手をかけるように、空を撫でている。
私は立ち止まり、見比べた。
上を見ると、作業員は黙々とケーブルを束ね、工具を持ち替えただけだ。
壁を見ると、影の“垂れた方の腕”が、少しずつ長くなっている。さっきまで胸のあたりだった肘が、みぞおちより下に落ちている。
「……あっちから見ると、そう見えるだけだよね」
独り言を飲み込み、私は歩き出した。日差しの角度や目の錯覚だと思い込もうとしたのだ。
その晩、近くのコンビニの店員が、こんなことを話してくれた。
「あの電柱、たまに工事してるでしょう。何度も同じ場所を直してるって、お客さんが言ってたよ。昔、あそこから落ちた人がいてさ。あの家の壁にぶつかって、亡くなったんだって」
店員は、レジの横の小さな窓から、ぼんやりと外を見た。
「それからね、壁を塗り替えても、あのあたりだけ色が変になるって」
私は笑って受け流しながらも、心のどこかで昼間の影を思い出していた。
“垂れた腕”が、壁に沿って落ちていく光景が頭から離れない。
数日後、また同じ場所を通りかかった。
今度は、作業員の姿は見えなかった。バケット車も、警告表示もない。ただ、冬のよく晴れた午後の、静かな住宅街。
それなのに、あの家の壁には、黒い形が残っていた。
形は前よりも薄く、輪郭も曖昧だった。
けれど、電柱の棒とバケット、ヘルメットをかぶった人影、それから不自然に垂れた片腕まで、全部そろっている。
少し離れて見れば、単なる日陰のようにも見えたが、近づくと、影の中の“顔の位置”だけが、こちらを向いているように感じられた。
風もないのに、電線がきしむ。
足元のスピーカーは沈黙したままだが、その金属の口が、何か言いかけて固まっているようにも見える。
私は、じわりと背中に汗をかいていた。
そこへ、角を曲がってきた高所作業車が、ゆっくりと停まった。
新しい作業員たちが降りてきて、慣れた調子で準備を始める。
バケットが伸び、さっきまで“影だけが作業していた場所”に、現実の作業員が追いつく。
壁には、二重の影が重なった。
今日来た作業員の、短く詰まった腕の影と、その下に沈んだ、長すぎる腕の影。
「安全帯よし」
男たちは声を掛け合い、作業を始めた。
だが、壁の中で垂れ下がった長い腕は、誰の声にも反応しない。
ただ、何度も同じ位置で、何かを掴み損ね続けているように、微かに震えていた。
しばらくして工事が終わり、車が去っても、壁の影は消えなかった。
日が傾るにつれて、現実の電柱の影は長く伸び、別の方向へ移っていく。
なのに、あの家の壁だけは、薄暗さの中に“昼の明るさ”を閉じ込めたように、同じ濃さの黒い人影を貼りつけたままだ。
やがて夜になり、窓に明かりが灯る。
カーテンの向こうでは、誰かがテレビを見ているのかもしれない。
それでも、外壁のその場所だけには、室内の明かりが届かない。光が避けるように、そこをよけて流れていく。
ある夜、私は好奇心に負けて、その家の前まで行ってみた。
近づいてみると、壁には細かい傷が無数についている。
指先でなぞると、ざらりとした感触の中に、引きずられた爪のような筋が交じっていた。
暗い空の上で、電線がわずかに揺れる。
誰もいないのに、スピーカーの前面が、風でもないのにかすかに震えた。
そのとき、背後でカサリと音がした。
振り返ると、さっきまで空だった電柱の上に、白いバケットが静かに止まっている。
中に立つ作業員は、こちらを見ているようで、見ていない。
彼の影が、また壁に落ちる。
二つの影が重なった瞬間、長い方の腕だけが、ぐい、と下へ引かれた。
見えない何かに捕まれたように、肩のあたりから折れ、そのまま壁の下へと滑り落ちる。
その動きに合わせて、電柱の下のスピーカーが、一度だけ小さく鳴った。
「……」
音としては聞き取れない、息のようなノイズ。それでも、意味だけは、はっきりと伝わってくる気がした。
“落ちきれない”
翌朝、その家の外壁には、何もなかった。
影も、傷も、すっかり消えている。まるで昨日の夜の出来事だけが、私の記憶の中にだけ塗り残されたように。
ただひとつ、変わったものがある。
それからというもの、あの電柱の工事は、なぜか頻繁に行われるようになった。月に一度だったのが、週に一度になり、今では、誰も作業員の姿を見ていない日にも、壁の上をバケットの影だけがゆっくりと移動していく。
あの家の人たちは、夜、カーテンを閉めるとき、壁に指先でそっと触れて確かめるのだろうか。
──今日は、誰の腕が、そこに残っているのかを。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


