川沿いの細い遊歩道を、会社の帰りに通り抜けるのが日課になっていた。
頭上には幾重にも重なった高架道路、その下を濁った水路がゆっくり流れている。コンクリートの柱と柱のあいだに、仮設の作業船が一隻、工事用の機械を積んで係留されていた。
その日も、いつものようにそこを通りかかったときだ。
作業はもう終わっているはずなのに、暗くなった現場から、金属を叩くような音がした。カン、カン、と、間をおいて三回。そのあと、ばしゃりと水がはねる音。
遊歩道から見下ろしても、船の上に人影はない。
青いコンテナとクレーン、ケーブルの束、そして水面に映る高架の裏側だけがある。
「残業か」
そう思いながら通り過ぎようとしたとき、視界の端で何かが揺れた。
水面に映った作業船の上に、ひとり、ヘルメットをかぶった人影が立っていた。
反射で歪んでいるせいか、妙な姿勢をしている。腰から折れたように上半身がぐにゃりと曲がり、頭だけがこちらを向いていた。
驚いて足を止め、実物の船の方を見上げる。そこには誰もいない。茶色いデッキと機械の影があるだけだ。
もう一度、水面を見る。
そこにはやはり作業員がいる。黄色い安全帯、汚れた作業着まで、細かいところまでくっきりしているのに、実物の船には対応する人間がいない。
その瞬間、反射の中の作業員が、ぐい、と首を傾けた。曲がった角度は、どう考えても骨が折れている。
思わず後ずさりすると、背中が高架の柱にぶつかった。
そのはずなのに、コツン、と軽い音がしただけで、手のひらに固い感触はない。
振り返ると、いつの間にか自分の背後に柱はなく、ただ黒い水面がのぞく柵だけがある。
一歩でも下がれば落ちる。
慌てて前を向くと、反射の中の作業員が、こちらへ歩き出していた。
水面の中の「上下逆さの世界」で、彼は高架の裏側を足場にするように、天井からぶらさがるみたいな姿勢で歩いてくる。
足が水面に触れるたび、現実の水路でも小さな波紋が広がった。
「すみません」
誰かに呼びかけられた気がして顔を上げる。だが、声の主は見当たらない。
代わりに、水の中から視線を感じた。
作業員の顔が、すぐ足もとの水面にまで近づいている。ヘルメットが、こちらの靴裏に触れそうなほど近い。
よく見ると、そのヘルメットの横には黒い線が走っていた。クレーン用のワイヤーらしい。顎のあたりで絡まり、皮膚を押し上げている。
彼は口を開いた。
しかし水を隔てた世界からの声は、泡のはじける音にしか聞こえない。
それなのに、言わんとしていることだけは、なぜか理解できてしまった。
――代わってくれ。
次の瞬間、足首を掴まれた。
冷たい感触ではなく、濡れたロープのようなざらつきが、靴の上から絡みついてくる。
視界がぐるりと回り、高架道路とビル群が逆さまになった。自分の体が、ゆっくりと水面側に傾いている。
落ちる、と直感したとき、背中に衝撃が走った。
今度こそ確かな硬さがあった。振り返ると、さっき消えていたはずの白い太い橋脚が、そこにある。
どうやら全身で柱にぶつかって倒れ込んでいたらしい。足もとの水面を見ると、作業員の姿は消えていた。
息を整えながら、そのまま家に帰った。
翌日から、その遊歩道を通るのをやめようかと思ったが、会社の最短ルートはそこしかない。
恐る恐る同じ場所へ行くと、作業船は消えていた。水面には、工事の痕跡である鉄の杭だけが数本、突き出している。
代わりに、遊歩道の柵に一枚の紙が貼られていた。
「墜落事故発生のため、当面のあいだ立入注意」
日付は、まさに前日のものだ。
その夜、自宅でニュースを見ていると、地域の欄で短くテロップが流れた。
「高架補強工事中の作業船から作業員が転落、一時行方不明に。のちに水面近くで発見されるも、頭部を強打して死亡」
思わず立ち上がり、テレビの画面に近づく。
映し出された現場の映像には、見慣れた高架と川、その下に浮かぶ作業船。そして水面近くで揺れる救命胴衣があった。
その色が、前夜、水の中からこちらを見上げていた作業員のものと、全く同じだった。
それからしばらくして、あの水路を通ることはなくなった。
でも、電車の窓から高架の重なりを見下ろすたび、水面の裏側に、逆さに立つ誰かの影が張りついているように思えてならない。
あのとき柱がなかったのは、既に自分が「向こう側」に立っていたからなのかもしれない――そんな想像を振り払うように、目を閉じる。
水面の反射に、自分の姿だけはけっして映してはいけない。
最近は、そう自分に言い聞かせながら、できるだけ川から離れて歩いている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


