昼休み、会社の裏手のコンビニへ行くには、細い道路を一本渡らなければならない。
そこでは今、再開発の工事が進んでいて、道の端には新しい銀色の電柱が立ち、頭上には黒い電線が何本も張り巡らされていた。さらに、その少し向こうには、赤と白の巨大なクレーンの腕が空に突き出している。
ある日、コンビニの袋を提げていつものようにその道を渡ろうとして、ふと足が止まった。
真上を見上げた瞬間、青い空のど真ん中で、電線が奇妙な「結び目」を作っているのに気づいたのだ。
新しい電柱から伸びる線と、別のビルから引かれた線、クレーンに仮固定された線が、ちょうど一点で交差している。その真ん中に、太いワイヤが輪になってぶら下がり、さらに余ったケーブルがぐるぐると巻き付いている。
それが、どう見ても「人の肩から腕にかけての輪郭」に見えた。
首をかしげて見ていると、警備員がこちらを見上げていた。
「すみません、お客さん。工事中なんで、立ち止まらないでくださいね」
慌てて頭を下げると、彼は小さく笑って付け加えた。
「……あんまり、上も見ないほうがいいですよ」
その言い方が妙に引っかかった。
◇
会社に戻ってからも、あの結び目が目に焼き付いて離れなかった。
エレベーターで一緒になった同じ部署の田嶋に、なんとなくその話をすると、彼は「ああ」と納得したように頷いた。
「裏の工事? 去年、あそこで事故があったんだよ」
「事故?」
「電線の付け替え中に、作業員がクレーンごと感電してさ。ニュースにも出てたろ? 俺、あの日たまたま出社しててさ……サイレンすごかったよ」
聞きたくないのに、田嶋は続ける。
「ハーネスでぶら下がってたから、落ちはしなかったらしいけど、上半身が真っ黒だったって。下から見上げた人、みんなトラウマだってさ」
それを聞いた瞬間、昼間に見た「人の肩に見える輪」が、途端に生々しいものに変わった。
あの電線の結び目は、彼がぶら下がっていた位置なのだろうか。
「でな、その後さ……」
田嶋は声をひそめる。
「工事が再開してから、そこを通ると『一人多い』って話があるんだよ。作業員の数、どう見てもヘルメットが一個多いって。で、工事用の名簿にはそんな人いないって」
彼は軽く笑って話を締めくくったが、俺の笑いは引きつっていた。
◇
それから数日、俺はできるだけ上を見ないようにして工事現場の下を通った。
だが、どうしても視界の端に、銀色の電柱と、空を刺すクレーンの先が入ってくる。
ある日、風のない静かな昼だった。
電柱に近づいたとき、カン、カン、と金属を蹴るような微かな音がした。
思わず見上げかけて、途中でやめる。視線を足元に落とし、早足で通り過ぎようとした瞬間、背中に刺さるような視線を感じた。
どうしても我慢できず、ほんの少しだけ目線を上げる。
視界の片隅に、クレーンの先端が入った。
そこに、誰かがしゃがんでいた。
真昼の明るさの中で輪郭だけが異様に濃く、顔は影に沈んで見えない。
作業着のようなものを着ているが、ところどころ煤けて黒く焦げているようだった。
目を凝らした瞬間、影がゆっくりとこちらに体を向けた。
それだけで、足がすくんだ。
気づいたらコンビニまで走り抜けていて、息を切らしながら冷蔵庫の前でしゃがみこんでいた。
◇
見間違いだ。そう自分に言い聞かせても、翌日も、その次の日も、俺は同じ音を聞いた。
カン、カン。
電柱を登るスパイクの音。
工事用ヘルメットの男たちが、地上で図面を広げている。
だが、その音に振り向く者は一人もいない。
彼らの頭上を、黒い影だけがゆっくりと移動していくのが、視界の端に見える。
やがて、音がやむ。
視線を少しだけ上げると、電線の結び目のところで何かがぶら下がって揺れていた。
そこから先を見るのが、どうしてもできなかった。
◇
一週間ほど経った頃、残業で帰りが遅くなった。
夜の工事現場は、薄黄色い照明に照らされて、昼間よりもいっそう無機質に見える。クレーンは動いておらず、現場の仮囲いも閉じられていた。
それなのに、あの金属音だけがした。
カン。
カン。
見上げるな。
脳内で警報のような声が響いた。
だが、逆に「今なら本当にいるかどうか確かめられる」と思ってしまった。
ゆっくりと顔を上げる。
真上、電線が交差するその一点に、誰かが逆さ吊りになっていた。
頭が下、足が上。
胴体に巻き付いたハーネスとワイヤが、電線の結び目から伸びている。
作業着は焼け焦げて黒く、体の形がところどころ溶けて歪んでいる。
顔だけが、やけに白かった。
目が合った、と思った。
逆さまの男は、ゆっくりと片手を伸ばした。
俺の胸元でぶら下がっている社員証のストラップが、ふわりと浮き上がる。
風なんて、吹いていない。
見えない何かがストラップの先をつまみ上げ、そのまままっすぐ、電線の結び目へと引っ張り上げようとしている。
喉が引き延ばされるように苦しくなり、息がうまく入ってこない。
逆さまの男の口が、ゆっくりと開いた。
そこに舌はなく、真っ黒に焼けた穴だけがあった。
それでも、はっきりと声が聞こえた。
「……替わってくれ」
耳の奥を直接こすられるような声だった。
その瞬間、道路の脇をトラックが勢いよく通り過ぎ、クラクションを鳴らした。
ハッとして体がのけぞった拍子に、社員証のストラップが外れ、路面に落ちる。
視界の上のほうで、電線の結び目に何かがぴたりと張り付いた。
さっきよりも太く、黒い影が一つ、増えていた。
◇
翌朝、恐る恐る同じ道を通ると、工事現場の前に「安全第一」と書かれた立て看板が立っていた。
その脇で、例の警備員が溜息をついている。
「どうかしましたか?」と声をかけると、彼はヘルメットを外して頭を掻いた。
「いやあ、また一本、ハーネスが増えちゃってね。名簿にない番号なんだけど、誰のか分からないんですよ。上からぶら下がってて、外せないんだ」
そう言って、彼は当たり前のように空を見上げた。
つられて視線を上げると、電線の結び目のあたりで、いくつものワイヤが束になって揺れている。
その中に、俺の社員証のストラップと同じ色をした紐が一本、混じっていた。
風もないのに、その紐だけが、まるで誰かの足を支えるように、不自然な弧を描いていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



