余計な一人

写真怪談

異動して最初に与えられた席は、窓際の端だった。
目の前には、灰色のビルの側面と、そこに貼りついたような非常階段がまるごと見える。ジグザグに折れ曲がりながら、六階あたりまで伸びている、銀色の鉄の階段だ。

昼休みになると、同僚たちはよくその階段を肴にした。
「今日も誰も使わないな」「エレベーターがあると、ああいうのは飾りになるんだよ」
そんな取りとめのない会話をしながら、私たちは外を眺める。下には植え込みと、掲示板。それから「徐行」とだけ書かれた赤い標識。どこにでもある街角の、どこにでもある景色のはずだった。

ある日、防災訓練が行われた。向かいのビルも同じ時間に避難訓練をするらしく、非常階段から人がぞろぞろ溢れ出してきた。
「せっかくだから人数数えてみようか」
隣の席の後輩が言い出し、私たちは階段を降りてくる人影を一段ごとに追った。
一列になって、足音も聞こえない高さで、スーツ姿や作業服が次々と折り返しを曲がっていく。

結果は、百二十人。
……のはずだった。

避難完了の連絡が入り、向かいのビルの人事担当から「うちは百十九名です」と聞かされたとき、私たちは顔を見合わせた。
「一人、多いね」
「数え間違いじゃないですか」
後輩は笑ったが、私は窓の外に目を戻す。
階段の真ん中あたり、二階と三階の折り返しの部分で、ただ一人、まだ降りきっていない影があった。

青い上着を着た、痩せた男だ。
片足を宙に浮かせたまま、手すりに片手をかけている。
訓練が終わり、他の社員たちがビルの中に戻っても、その男だけは、なぜかそこから動かなかった。

午後の会議が終わっても、残業に入り、外が暗くなっても、ふと窓を見ると、やはり同じ姿勢で折り返しに立っている。
さすがにおかしいと思い、スマートフォンで拡大してみたが、やはり青い上着の男が一段分だけ降りきらずに止まっている。
ただ、ズームしていくうちに、どうも顔がはっきりしないことに気づいた。ノイズみたいな影が、そこだけ細かく震えている。

翌日も、その次の日も、男はいた。
朝出社してブラインドを上げると、もうそこにいる。帰りがけに見下ろすと、まだ同じ姿勢のまま、足を浮かせている。
ただ、よく目を凝らすと、少しずつ様子が違った。上着の色味が変わっていたり、ズボンの丈が短くなっていたりする。
まるで、別々の誰かが、同じ姿勢でそこに「合わせられて」いるようだった。

そんなある日の夕方、掲示板に新しいポスターが貼られた。
雨上がりで道が濡れていたせいか、色鮮やかなチラシの中で、その一枚だけ異様に白く浮き上がって見えた。

行方不明者の捜索願いだった。
三十代男性。青い上着。最後に確認された姿は、職場からの帰宅途中。

写真の男は、どこか見覚えがあった。
窓から目を上げる。非常階段。折り返し。
そこには、相変わらず足を宙に浮かせた影が立っている。
スマートフォンのカメラを掲示板ごと向けて撮影し、画面で拡大すると、ポスターのすぐ上、アクリル板に映り込んだ非常階段の反射の中に、同じ青い上着の男が、はっきりと写っていた。

その日から、私は人が階段を使うたびに、息を詰めるようになった。
とくに仕事終わりの時間帯。向かいのビルの社員が非常階段を降りていくときだ。
一人、また一人と折り返しを曲がっていく。誰もいないはずの踊り場を過ぎるたび、ほんの一瞬、その人の輪郭が、そこに残る影と重なるように見えた。
そして、下の扉から出てくる人数は、いつも一人ずつ、少ない。

「……さっき女の人も降りてましたよね」
ある日、後輩がぽつりと呟いた。
「え? 男の人しかいなかったけど」
言い合っているうちに、掲示板に二枚目の捜索願いが増えた。今度は若い女性だった。

それから、貼り紙はゆっくりと増えていった。
老人、学生、作業服姿の男。どれも、この辺りで見失われた人たちだという。
私は窓越しに非常階段を見るたび、折り返しの影の輪郭が、日に日に膨らんでいくような気がした。痩せていたはずの肩が、いつのまにか少し厚みを増し、足の形も、誰のものともつかない中途半端な線をしている。

決定的なことが起きたのは、台風の接近で早めの退社命令が出た日のことだ。
ビルの中は慌ただしく、私も荷物をまとめながら窓の外を見た。
向かいのビルの非常階段に、一人、見慣れたコートの背中があった。

同じ部署の、営業の男だ。
今日は安全のために「外階段は使わず、建物の内側から退館するように」と社内メールが出ていた。それなのに、彼はなぜか、向かいのビルの非常階段を降りている。
そんなはずはない。彼は今、私たちと同じビルの、同じフロアにいるのだから。

彼の足元が、二階と三階の折り返しへ近づいていく。
先回りして待っている、あの影へ。

私は思わず窓を叩いた。もちろん、聞こえるはずもない。
彼が折り返しに差しかかった瞬間、蛍光灯の光が一瞬だけ揺れ、外の景色がわずかに暗くなった。

その瞬間を、私は見た。

営業の男の身体が、足を踏み出した姿勢のまま、ふっと薄くなり、折り返しに立つ影と重なっていく。
二つの輪郭がぴたりと重なった次の瞬間には、階段にはひとつの影しか残っておらず、その下の踊り場にも、下の扉にも、彼の姿はどこにもなかった。

騒ぎになった。
同僚は「非常階段なんてなかっただろ」と言った。
総務も警備も、「あのビルは屋内階段しかない」と首をかしげる。
窓から見えるあの銀色の階段を指さしても、「ほら、あれは、配管か何かの……」と曖昧に言葉を濁すだけだった。

警察が来て事情聴取を受けるころには、私以外の誰も、外壁に階段があるとははっきり言えなくなっていた。
それどころか、「最初から何もなかった」と断言する者さえいた。

後日、掲示板には新しい捜索願いが増えた。
営業の男の顔写真と、着ていたコートの特徴。
そのポスターの上に貼られた透明なカバーには、薄く非常階段が映り込み、その折り返しには、やはり一人分の影が立っていた。

それから私は、窓のブラインドをほとんど開けなくなった。
どうしても外が気になって仕方がない日は、思い切って街路側から見上げてみる。
……不思議なことに、地上から見た限りでは、あのビルの側面には、確かに階段などどこにもないのだ。

代わりに目に入るのは、灰色の壁と、赤い標識と、増え続ける貼り紙だけ。

それでも、たまに、エレベーターを待つ間に何気なく視線を上げてしまう。
ガラス窓に映った向かいのビルの姿を、無意識に追ってしまう。
映り込みの中では、今日も非常階段はちゃんと存在し、その折り返しに、誰か一人が立っている。

最近、その影の背格好が、自分に少し似てきた気がする。
肩幅も、背丈も、スーツの色も。

さっき、エレベーターの内側に備えつけの防犯カメラモニターを何気なく見たら、ドアが閉まる直前、画面の隅に非常階段の一部が映り込んだ。
折り返しに立っていたのは、ネクタイを緩めた男で、顔は画面から外れていたけれど、胸元には、見覚えのある社員証のストラップが揺れていた。

あれが、私でなければいいと、思っている。
今のところ、掲示板に「私」の写真は貼られていない。
ただ、真ん中の少しだけ広いスペースが、ずっと空いたままなのが、どうにも気になって仕方がない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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