会社からの帰り道、住宅街の角を曲がったところに、妙なスペースがある。
コンクリートの植え込みの前に、鮮やかな緑色の網がぐしゃぐしゃと敷かれ、その前に二リットルのペットボトルが四本、きれいに並べられている場所だ。
最初は「猫よけかな」としか思っていなかった。
けれど、よく見るとおかしい。
網の上には、いつ見てもゴミ袋がひとつも置かれていない。
収集日じゃない日でも、どこかの家の古い家電や割れた植木鉢なんかが、同じ町内の別の集積所には平気で積まれているのに、そこだけはいつも、網とペットボトルしかない。
それから、植え込みのコンクリートの真ん中には、縦に大きなひびが入っている。
白い補修材で一度は埋めたようなのに、また割れたらしく、細い黒い線が中から覗いていた。まるで、中身がこちら側へ滲み出ようとしているみたいに。
ある日、通りかかったとき、近所の老婆が網を直しているのを見かけた。
背中を丸めた小さい人で、緑の網のはしを丁寧に伸ばし、ペットボトルの位置を指先で微妙にずらしている。
「こんばんは」
挨拶すると、老婆は顔だけこちらに向けた。
細い目が、妙にじっとしている。
「それ、猫よけなんですよね」
そう言うと、老婆は少しだけ首をかしげた。
「猫“だけ”なら、こんなにいりませんよ」
意味のよく分からない返事だった。
問い返そうとしたが、老婆はもうこちらを見ておらず、ひび割れたコンクリートを、指の腹でそっと撫でていた。
その晩、布団に入っても、緑の網の光景が頭から離れなかった。
妙に鮮やかな色、ぴんと張られたロープ、そして四本のペットボトル。
四本。
翌朝、出勤前にもう一度その前を通る。
昨夜とまったく同じ位置に、同じ量の水が入ったペットボトルが並んでいた。
冬でもないのに、内側にはうっすらと白い曇りが浮かんでいて、よく見ると、その曇りが指の形のようにも見える。
指で、内側から掴むような。
ぞわりとして早足になると、背後で「かちゃん」と、ペットボトルが揺れる音がした。
振り向いても、四本は変わらずきちんと並んでいる。
車の振動か何かだ、と自分に言い聞かせて、その日は忘れることにした。
数日後、同僚と飲みに行った帰り、終電を逃した私は、ほろ酔いの頭であの道を歩いていた。
夜の植え込みは真っ黒で、緑の網だけがぼんやりと浮かび上がっている。街灯の光を受けたペットボトルの中で、水が鈍く光った。
ふと、網の手前のアスファルトに、濡れたような丸い跡がいくつも付いているのに気づく。
小さな足跡のようでいて、人間にしては指が多すぎる。
そういえば、あの辺りで猫が消えるって話を、どこかで聞いたことがある。
首輪だけが見つかったとか、鳴き声がひび割れた壁の向こうから聞こえたとか。
そんなことを思い出した瞬間、酔いが少し醒めた。
そのときだった。
ぴしゃ、と水のはねる音がした。
見ると、一番左のペットボトルが、いつの間にか倒れている。
キャップは閉まったままなのに、側面からじわじわと水があふれ出て、網の上にしみ込んでいく。
おかしい。割れている様子もないのに――
そう思いながら近づいた私は、足を止めた。
緑の網が、内側からふくらんでいる。
まるで、誰かが下から息を吸ったり吐いたりしているみたいに、ゆっくりと波打っていた。
ひび割れたコンクリートの隙間からは、黒い何かがじわりと染み出してきて、アスファルトの上に細い線を引いている。
その線が、私の足元の水の跡へと、まっすぐ伸びてきていた。
逃げようとした瞬間、足首を何かに掴まれた。
固くて冷たい指が、五本、六本、七本。
数えようとする暇もなく、ぐいっと下へ引きずられる。
見下ろすと、緑の網の隙間から、白い何かが押し出されていた。
人間の顔のようでいて、鼻や口の形が溶けかけた粘土みたいに崩れている。
その表面を、ペットボトルの水が逆流するように伝い、ひび割れの中へ吸い込まれていった。
目だけがはっきりしていた。
水面に浮かぶ油のように、虹色に揺らぎながら、じっと私を見上げている。
網の下で、何十もの指がうごめく気配がした。
足首を捕まえた手以外にも、同じような手が、私の影を撫でるように伸びてくる。
声を上げようとしたが、喉がうまく動かない。
代わりに、耳のすぐそばで、水の入ったペットボトルが揺れる音が何度もした。
――かちゃん、かちゃん、かちゃん。
ふいに、眩しい光が横から差し込んだ。
タクシーが曲がり角を曲がってきたのだ。
ヘッドライトが網と壁を照らした瞬間、足首を掴んでいた冷たい感触がふっと消えた。
私は尻もちをつき、倒れていたペットボトルのすぐ横に手をついた。
キャップは閉まったまま、さっきまで溢れていたはずの水は、もう一本もこぼれていない。
タクシーの運転手が窓から顔を出し、「大丈夫ですか」と声をかけてくる。
私は「酔って転んだだけです」と笑ってごまかした。
家に帰って靴下を脱ぐと、足首にはくっきりと、細い指で掴まれたような痣が残っていた。
湿った冷気が皮膚の奥まで染み込んでいるようで、何度風呂に入っても消えない気がした。
次の日から、私は帰り道を変えた。
その集積所の前を通らないように、一本遠回りをする。
それでも、休日の昼間、ふと気になって様子を見に行ってしまった。
明るい太陽の下で見るあの場所は、拍子抜けするほど平凡だった。
ひび割れたコンクリート。
その前に敷かれた緑の網。
そして――
ペットボトルが、五本になっていた。
どれも、同じくらいの量の水が入っている。
新しい一本には、まだラベルの剥がした跡すらなかった。
私は無意識に自分の足首を撫でた。
冷たさは、もうない。痣も消えていた。
ただ、ペットボトルの水面に映った自分の姿だけが、少しおかしかった。
揺れる水の中で、私の足首の部分だけが、黒く塗りつぶされたみたいに見えない。
そこだけ、何かが重なっている。
緑の網の端は、五本のペットボトルの重みで、ぴんと張られていた。
あの老婆の姿は、もう見ない。
ただ、時々思うのだ。
この町から誰かがいなくなるたびに、あの前を通ったら、ペットボトルが一本ずつ増えているんじゃないかって。
そしていつか、網の上いっぱいにずらりと並んだペットボトルが、いっせいに倒れる夜が来るのかもしれない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



